授業改善
今、授業が崩壊してしまった英語の先生と一緒に二人三脚で授業改善をしている。
1週間その先生の授業を見て感じたことは、崩壊の原因は、生徒が何をしたらいいのかがわからないことにあるようだ。私が毎時間その先生と一緒に教室に行くと生徒が「また来たのかよ」とか「いつまで来るんだよ」とか文句を言っている。それに答えて「このままだと君たちがかわそうだから来ている」と言うと、生徒は微妙な反応を示す。「俺たちを注意しに来たんじゃないの?」「あの先生クビになっちゃうの?」心優しい生徒は「大丈夫、わかりやすい授業だから心配いらない」と先生をかばったりする。それでもこの授業をなんとかしたいとお節介な気持ちになるのは、A先生が私に憑依しているからかもしれない。
A先生の話の続き。
「この学校の生徒の実態がよくわかりました。すごいですね。驚いた。これでは先生方も大変だ」
「色々な生徒がいますからね。この学校は教育課題の最前線です」
「私ね、本気になりましたよ。3月まで毎週来ますよ。いいですか」
「無理しないでくださいね。くれぐれも体調に気を付けてください」
「授業の後にいつも感想文を書かせているんですが、『もう来るな』とか『いつまで
来るんだ』とか書いてあるんですよ」
「どうもすみません」
「いや面白い。あの子たちがどれほど変わるかやってみたい。本気になりましたよ」
当時A先生は79歳。大病から生還したばかりで、週に数回ボランティアで授業の補助に入ってくれている。自宅から学校まで2時間近くかかる。交通費も自腹。電車を乗り継ぎ、駅から40分かけて歩いてくる。なぜ、そこまでしてこの学校の授業にこだわるのか、凡人には理解できない。
ふらふらしながら歩いているA先生だが、授業の話をする時にはキラキラと目が輝いている。授業でひとたび生徒に向き合うと体中からパワーがほとばしる。誰が見ても怖い。気迫が伝わってくる。声を出さない生徒をゆるさない。
A先生は当時「どんな生徒でも英語を話せる」「英語は楽しい」その「信念」と「思い」だけで今生きていたように感じた。
A先生自作のプリントのタイトルが「お祭りタンポポ」。空手を真似て右手を振り下ろし、「気合を入れてエイッ(A)」「口が爆発ビィー(B)」と発音を教える姿はまるで体育の実技だ。
いい授業は誰が見ても美しい。学校の教育活動の大半が授業だ。授業をもっともっと美しくしたい。