教員のキャパ

 

 あの日からA先生の言葉が頭を離れない。もっと本質的なこと、本当のこと、本物と言ってもいいかもしれない。それに触れさせることが大事だという。塾や予備校、進学校もそうかもしれないが、自分から学ぼうとしている生徒に教えることはそれほど難しくない。先生の学力がよっぽど低ければ別だが、それは口の広いバケツに水をそそぐようなものだ。神社の賽銭箱にお金を入れそこなうやつはいないだろう。

 

  横や下を向いた口の狭いコップに水をそそぐのは至難の業だ。中には頑固な蓋のついたコップだってある。まずはてんでんばらばらに転がっているコップを立てて整然と並べること(ユニバーサルデザイン)から始めなくてはならない。

 

 ただここまでは外からの力でなんとかなるが、コップの口を広げたり、口を塞いでいる蓋を開けるのは容易なことではない。水道の蛇口に無理に口を持って行っても、本人に喉の渇きがなければ水は体にしみ込まない。コップの蓋を開けるのは個別の指導と共に心の蓋を開かなければならない。それが本質的なこと、本当のこと、本物に触れることなのだろう。それは教える側の人間力が試されることになる。

 

 恐ろしいことだが、学び直しの高校では、教える先生によって同じクラスでも生徒の状況はがらっと変わる。これほど教員力を試される学校はない。先生によって生徒の様相が変わる。極端にいえば先生によって生徒の人生が変わってしまうのだ。だからやりがいがある、と思うのか、だから大変でやりきれないと思うのか、それが教員の資質・能力のバロメーターでもある。

 

ある若手の先生とぼうずの会話。

「もっと別の指導ができていたら彼はやめなかったのではないか。彼を進級・卒業させたかった。自分のキャパの無さを悔しく思います」

「本当に悔しいと思う気持ちが自分のキャパを広げることになる。そういう意味では大変な生徒が教員を育てている。でも、はなから彼らをダメだと思う教員のキャパは永遠に広がらないよ」