バジリスク。

ヤクルトスワローズの試合で
攻撃チャンスの時に応援団が歌う
応援歌のひとつです。
畠山選手のチャンステーマ
という感じですが、元々はパチスロ
「バジリスク~甲賀忍法帳~」
で当たりが来る前に
流れる曲なのだそうです。





この歌のサビの部分が
応援歌になっているのですが、
畠山選手はパチ屋通いが趣味で
この台が好きだったから
応援歌になった…という噂もあるけど
どうなんでしょうかね。

さて、この甲賀忍法の甲賀ですが
伊賀と共に有名な忍者組織ですよね。
神宮球場で甲賀忍者の歌が応援歌
として大々的に流れるって
なんかゴイスー☆
と、いうのも神宮球場って。。。

甲賀忍者が住んでいた
屋敷跡なんですよ☆
(* ̄∇ ̄*)


偶然だったら凄いけど
わざとだったら更に凄い❗
良いセンスしてる~♪
そういえば神宮住まいの忍者達は
仕事の合間に傘を作っていました。
よく浪人が内職でする
傘張り等の修理ではなく
材料を仕入れて分業作業で
一から作っていたそうです。
傘といえば。。。




ヤクルト戦には欠かせない
応援のビニール傘❗
これも偶然か?ゴイス~♪

この傘振りスタイルは
スワローズがまだ国鉄スワローズ
だった頃に初代私設応援団団長の
岡田さんが考案したそうです。
弱小球団のスワローズ戦、
神宮球場のホーム席はガラガラ。。。
岡田さんは少ない観客を多く見せる為
ビニール傘でかさましする方法を
思いつきます…傘だけに。。。

(ー_ー;)

え、えーっと。
なぜビニール傘かというと
「誰でも持っているから」だそうです。
そして誰でも聞いたことのある
東京音頭で傘を振って応援!
というスタイルが生まれました。
最初は4人から始まった傘振り。
今ではスワローズ戦名物です。

岡田さんはお金をかけずに応援する☆
がモットーでした。
そんな事にお金を使わずに
その分、チケットを買って
応援に来な❗という考えです。

当時のプロ野球の応援は
楽器もないのでヤジ合戦だったそうで
初めて巨人VSヤクルトの試合を
観に行った時、
ヤクルトへのヤジの凄さと
ヤクルト側の客の少なさに驚き
スワローズの応援団になるのを
決意したそうです。
~私も去年の歴史的大敗
96敗を見てスワローズを応援すると
決めました~

岡田さんはヤジに負けないように
少人数でも大きい音を出すべく
自ら太鼓の代わりに
フライパンを叩いて応援。
メガホンで応援するのを考えたのも
トランペットで応援するのを
始めたのも岡田さんだそうです。



★岡田団長


岡田さんは自ら動き、盛り上げて
1人また1人とスワローズ応援団を
増やしていきました。
今ではかさまししなくても
大勢のスワローズファンで
常に席は埋まっています。

岡田さんの葬儀には
球団関係者やスワローズの選手、
大勢のスワローズファンが集まり
東京音頭が流れる中、
傘を振ってお別れをしたそうです。
そんな思い入れのある傘なんです。

近年 、ズムスタでのヤクルト戦で
広島カープが真っ赤な傘を
カープファンに無料で配り
応援させるという事を続けていて
大人しいと評判のスワローズファンを
怒らせております。
広島カープの松田オーナー曰く

相手球団をからかう形でやろう
という話になった。
言うよ、(ヤクルト側の)社長に。
仁義じゃけ。
普通は嫌がられん、
ヤクルトは嫌がるんじゃ。


品の無い
オッサンじゃのう。
(ー。ー#)

ヤクルト側は
「ファン同士の対立を煽る」
という理由で中止を申し入れているが
カープは止める気は無いそうです。

「からかう」って何よ❗
タオル回しとは違うんです。
神宮球場にスワローズが来た時からの
大事な思い出が詰まっているんです。
超にわかファンな私だって怒る。
土足で入ってくんなよ❗
(*`Д´)ノ!!!

。。。でも岡田さんなら
「そうカリカリしなさんな。
そのエネルギーで
しっかり応援しな!」
って言うかもね。
私は心が狭いわー。にわかなくせに。


あ、脱線しました。
元に戻しましょう。
江戸時代のお江戸には
堂々と忍者屋敷がありまして、
しかも敷地内には鉄砲の練習場まで
あったんです。

ぷぷぷ。
私だってただボーッと野球場に
行ってた訳じゃないのよ~♪
ちゃんと歴史巡りの情報集めは
怠りましぇん❗
僕は死にましぇーん❗

あ、そういえば何年か前に
ヤクルトスワローズのマスコット
つば九郎先生がFA宣言をなさって(笑)
いくつかの企業が獲得に
乗り出したのですが、
九州忍者保存協会も手を挙げ
神宮球場へ交渉にきていましたwww




つば九郎の答えは
「もう少し考えさせて下さい」
そしてわざわざ遠い九州から
スカウトしに来てくれた忍者を
メッタ斬りにするという暴挙に出る
畜ペン・つば九郎(笑)
この後、仲間の忍者により
お縄になってました《*≧∀≦》


と、言うわけで古地図と共に
神宮球場の甲賀忍者屋敷跡を
ぐるっと巡ってみたいと思います♪
…何も残ってはいないけどね。
勿論、
説明板も石碑もありましぇーん。

でも、その前に
なぜ東京の青山に甲賀忍者が
住むことになったのか
軽く説明しておきますね。

戦国時代に活躍していた忍者達。
諜報活動や工作員としての
活動が主でしたが
戦になると最前線に出て
相手側の偵察もしました。
そして火薬の扱い、
特に鉄砲の扱いに秀でていたので
凄腕スナイパーとしても大活躍。

乱世が終わり徳川の世になった時に
江戸城を守る鉄砲隊・百人組として
4チーム編成で召し抱えられます。
幕府直轄の独立精鋭部隊です。
過酷な忍者活動を乗り越えて
きた猛者達ですからねぇ。
どんなメンツか男塾のキャラで
例えながら説明すると。。。


甲賀組 (男塾・羅刹)

滋賀県甲賀市、湖南市で
農業・薬売りをする一方、
召集がかかれば忍びとしての
工作活動を行っていた。

伏見城の戦いで多くの死者を出すも
家康により討ち死にした甲賀忍者の
遺族・子孫を甲賀組として編成され
山岡道阿弥に預けられる。

山岡道阿弥は関ヶ原の戦いで
小早川秀秋が裏切るように
手はずを整えた男であーーーーる。


伊賀組 (男塾・影慶)

忍者と言えば服部半蔵!
伊賀組は半蔵を頭に大活躍。
家康のSPとして常に働くが
戦国時代からなぜか他の忍者より
給料が安かった。
「武士の家計簿」の著者である
磯田道史氏によると、
忍者の年収は
400~700万円なのに対して
伊賀は年収約100万円。


根来組 (男塾・卍丸)

元は戦国時代、紀伊国北部にあった
根来寺(ねごろ)の僧兵達。
寺ではあるが武闘派で多くの鉄砲を
所持しており強い力を持っていた。
信長とは友好関係であったが
小牧・長久手の戦いで
大阪城を攻めた為
秀吉に根来寺をつぶされる。
仕方なく伊勢に逃れ家康に仕える。
その後、成瀬正成を組頭とする
根来組同心として江戸の警備を行う。
忍者…というよりも鉄砲部隊。


二十五騎組  (男塾・センクウ)

黒田家家臣で構成された精鋭部隊。
黒田二十四騎と混同されるが別物。
ちなみに黒田二十四騎とは
戦国時代に黒田官兵衛が家臣の中から
選んだ24人の猛者チーム。
二十五騎という名前は
ここからきている?
江戸での住まい等の資料はあるが
成り立ちなどの資料が少なく
イマイチよくわからないので
あーーーーーーる。


魁!!男塾・死天王バージョン、
with江田島平八
で紹介してみました~(笑)

薄給伊賀忍者可哀想。。( ω-、)
二十五騎…字は違うけど
私の大好きなオートレーサー
永井選手も25期だわ♥️
元SMAPの森君も同期です。
私的には根来組が気になりますね~。
元はお寺の僧兵って!
なんか凄そう❗色々とwww

さて、
お得意のざっくり説明が終わったので
いざ❗屋敷跡へ♪

と、いきたい所ですが
長くなって写真が増えると
サイズ小さくしても
エラー&アプリ保存になっちゃって
UPできないので(←私だけ?)
一先ずここで区切るので
あーーーーーーーーーーる。

そこんとこ よろしく by桃