平成23年4月30日~5月4日

年末年始は義父の病気療養のためかなわなかった妻と次男の帰省が実現した。

来週に控えた抗がん剤投与vol.3に備えて、「好きなもんいっぱい食べよう」と長男と私で声を合わせて妻を誘った。

携帯電話をスマホに替えた時の手法に味をしめたこともあり※、
私「今度、帰省する?ママしないなら、俺○○(長男)と行くけど…」
妻「わたしも行きますっ!」

※…ちなみに、スマホに替えた時の手法は、
私「今度、一緒にスマホにしようよ」
妻「私は使いこなせないから…」
私「じゃぁ、俺だけか…」

…この二つのやり取り、結果は違えど共通点がある(どうでもいいが)。


さて、病気がわかってからというもの、1~2週間のスパンで、また抗がん剤投与の日から丸々一週間横浜に家の切り盛りのために来てくれている母。
母の日も間近ということで、御礼行脚(?)もしようということも今回の帰省の狙いのひとつになった(行くも行かずも自分の病に左右されていた妻が、自分以外のことをやっと考えるようになってくれただけでも嬉しい)。

しかし…帰省したら絶対に食べにいきたいなと思っていた店(ふるーいラーメン屋と、美味しいのに客があまりいないイタリアン)が無期限休業&閉店していた。
食べたいものが食べられないと、ゼロか百かの判断をしてしまう妻。つまり、行きたいと思っていた店が閉まっていると、「もう~コンビニで買えばいいよ!」となってしまう。

なんとか折り合いをつけて5日間過ごし、最終日。
サプライズにと、前日ショッピングモールで買った品と二人からの手紙を添えて帰り際に母に贈呈。
母は手紙に目を落とすと、ろくに読まないうちに「あとで読むから」と言って手紙をしまい、その後私たちを見送った。


思えば、病気がわかったのはちょうど震災と同じ日だった。
実家は海辺の町で、津波の被害があったことも見てわかるほどの場所に実家はあった。

帰省で通された部屋は整然としていて最終日まで気づかなかったが、私たちが使っていた部屋以外は震災の被害を受けたままの状態で、倒れたものは倒れたままだった。我が家も周囲の家屋と同様に屋根にはまだブルーシートがかけられていた。
被害を受けて復旧復興への準備すらできないでいる東北と同様、実家にもそれがあった。
でも、実家の復旧が進まないのは、紛れもなく我が家の支援を優先するからであった。
趣味で続けていたパークゴルフのクラブやバッグですらも倒れたままだった。

震災の日。
近くの小学校の体育館に近隣住民と共に避難した両親。
あくる週から我が家に「支援活動」に来ていた母。


母に贈ったプレゼントは、パークゴルフに使うサンバイザーとボールマーカー。

妻が私の母に書いた手紙の一行目は、感謝の気持ちを言葉にしきれず、

「お母さんいつもごめんね。」






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乳がんと19年闘った田中好子さんが亡くなった。

30代で乳がんが見つかって、再発と早期発見を繰り返しながら闘ってこられたとのこと…。

私はキャンディーズの世代ではないので「スーちゃん」と自然に呼べず、どちらかと言えば、「女優・田中好子さん」という認識のほうがある。

葬儀で流されたメッセージに、「一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません」とあった。

ニュースやワイドショーで、繰り返し田中好子さんの死が伝えられ、これを見ている乳がん患者やその家族は辟易しているのではないかとの声も聞こえる。

たしかに、田中好子さんが亡くなったのはショックだった。妻がどう思っているかなと気にもした。

しかし、報道番組で田中好子さんの肉声を聴いて、私は勇気をもらったように感じた。綺麗事ではなく。

髪もなくなった。
自由に外に出られなくなった。
毎週病院に長時間の治療と検査に向かわなくてはならなくなった。
妻は「ごめんね」と言う回数も多くなった。

でも、今は負けないように頑張らねば。
田中さんの声を聴いて、そう思った。
19年は頑張りたいな。そしたら、銀婚式は迎えるし、子供たちも成人式を迎えるし。
そこを越えたら、もういいや、とおもうかもしれないけれど、「スーちゃん、19年だっけ。もうちょっと頑張ろっかな」と思うかもしれない
な。
とにかく、今、何が起きても、もうダメかなと思っても、生きてるうちはたぶん頑張るだろうな。


追伸
会社の会議や研修などが治療通院の日に毎週重なるため、全く参加できないことになった。
会社の研修を担当する職を今年も与えられているのに、その命を果たせず心苦しい。
ついこの間、ちょうど会議研修の日、「今日も休むんだなぁ」と思っていた。
その時、ふと見たTwitter上で、会社の先輩のツイートを見た。
「最近のお気に入り」というツイートにNHKの番組ホームページのURLがあり、接ぐと「宇宙からのウェィクアップコール」という番組の動画が。
宇宙飛行士はスペースシャトル内で24時間内に16回の日の出を見る。
日にちの感覚が鈍らないよう、NASAから本人や家族が選んだ楽曲をスペースシャトルに届けるという。
その動画にあったのは、両親から遠く離れた宇宙にいる娘に送られた「What a wonderful world」(ルイス・アームストロング)

地元を離れて14年経つのか。
でも、今素晴らしい世界に暮らしているなと改めて感じた。
こうしたメッセージを何気なく残してくれる先輩や、普段非力な自分にも心を寄せてくれる方々、我が子のためにも必死に生きようとする妻、そんな出逢いがあって、なんて素晴らしい世界なんだろう。

心にしみた。



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カレンダーももうすぐゴールデンウィーク。
毎年だいたい4月29日~5月5日は、私の勤める会社も大型連休となる。

2005年5月2日。
例年、必ず私の地元に帰省している。
ここでいつもみんなでお祝いをしている。
毎年(この会社にいるうちは)絶対に休みになり且つ平日で何処にいっても休日ほど混雑しないということで、この日を結婚記念日として選んだ私たち。
地元に帰ることで、結婚式で祝ってくれた人が一人でも多いほうがいいと考えてのこと(いまや二児に恵まれ、祝ってくれる顔ぶれは増えた)。

結婚6周年を迎える今年のゴールデンウィーク。
妻は今の状態を気にして帰省を控えようと言っていた。

抗がん剤治療の後に手術で乳房を切除すると医者から告げられた妻。温存はできないが、再建はできるとのこと。しかし、再建したら?と私が勧めても妻は「お金かかるし、いいよ、べつに」と。

いつもそうだ。
私の提案に妻はいつも「いいよ、べつに」という。

でも、私はこの治療が終わったら、妻には限りなくもとの姿に近い姿になっていてほしいと思っている。
温泉にも気兼ねなくいきたい。
乳房がない自分を見る人の目。そんなこと気の持ちよう次第なんだろうけど、そこは無理に頑張らせるより前と同じ心持ちでいてほしい。

だったら、尚更治療中の今も、いつもと可能な限り変わらない状態にしたい。だから、いつも通り帰省もしたいし、いつも通り結婚記念日を迎えたい。

もう、元には戻れないけれど、少しでも少しずつでも元に戻れたら、きっとこれからが違うはず。


日曜日に、洗車にいこう。



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平成23年4月12日。
抗がん剤の二回目の投与の日。
「またこの日がきたかぁ」と妻。
前回は、投与した日の夕方には吐き気や倦怠感がどっときた。その状態が2~3日続き、そのあと悪阻(つわり)のようなダルさが来る。
一週間ほどでそれらがほぼなくなり、食欲も戻る。
次の一週間は、喉の痛みと口内炎との闘い。
なんとなくサイクルがわかってきたので、今回は事前準備というか心構えが皆に整った状態で病院に向かえた。
車に乗り込んで、
「さぁ、頑張ろう!」
「笑顔で帰ろう!」

この一ヶ月は震災・原発のニュースを常に耳にし続けた。
克服への長い道のりを表すかのように、テレビに映るのは変化のない被災地の姿。死亡した人の数は日々増え、原発はとうとうチェルノブイリと同じレベル7の事故となった。余震は今も収まる兆候は全くない。

我が家も、皆心底では妻の体調の悪化と癌の転移に怯えながら、日々を送っている。

ただ、どちらの姿にも共通しているのは、少しずつ笑顔が増えていること。
もっと正確に言えば、笑顔を増やそうとしていること。
掛け声をCMでループしても響かないが、当事者の腹の底から吐き出した「がんばろう」の声は、たしかな決意。

再来週はMRIの検査がある。
転移の有無をより正確に調べる。
どんな結果でも、笑顔で帰ろう。







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平成23年4月5日夜。

抗がん剤の副作用なのか、抗がん剤によって白血球が減少したせいで抵抗力が落ちて風邪わ引いたのかわからないが、38℃以上の熱が続いている。

病院で風邪っぽい時に飲む薬を二種類とうがい薬をもらっていたので、それらを服用。

長男は朝からニンテンドーWiiをやっているが、ママ(妻)のMii(似顔絵)の髪を短くしようとしている!
忠実に…という純粋さもわかるが、かわいそうだからヤメテ~(´Д`)



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平成23年4月1日

医師からの宣告通り、抗がん剤投与から約二週間後に脱毛が始まった。
風呂場で頭・体を洗っている時と、髪を乾かしている時に足下に大量に髪が残った。「キリがないから」と次から次へと抜ける髪を処理するのを途中でやめたとのこと。

わかってはいたことだが、やはり目に見える変化に、本人は少なからず凹んでいる。

五歳の長男と一緒に入浴した時、私から脱毛のことを説明した。
長男「ママ、ハゲツルピッカになっちゃうの?」
私「そうだよ。びっくりしないようにね。病気が治ったらまた生えてくるんだよ。それまで坊主頭。あんまりママにも言わないであげてね。」
長男「ふーん、わかったー。」

湯上がり。脱衣所で妻が息子の髪を乾かしている時、長男が、
「ママ~、ハゲツルピッカになってもママかわいいから大丈夫だよ。」と。
寝る前、布団のなかで、
「ママだけハゲツルピッカだとかわいそうだから、今度モアナ(美容室の名前)でぼくもボウズアタマ(この言葉覚えた)にする~。」

息子にとって、ママは無制限に愛を注げる対象のようだ。

投与からちょうど二週間後は最も白血球の数値が下がるころ。本人だけでなく周りも衛生面の管理に細心の注意をしていきたい。



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抗がん剤投与から5日が経過。
直後に比べ、楽になった感あり。食欲もやや回復。抗がん剤ってこういうものかと少し理解した。

夜。
6ヶ月の次男がなかなか寝付かず、私は寝室から出てリビングで抱っこをしていた。

我が家はふだん、妻・次男・長男・私の順に川の字(?)になって寝ている。
今夜は全員で一緒に床についたが、次男を抱っこして私が部屋を出たため、久しぶりにママの隣で寝られて嬉しい長男。
「ママ~」と何度も用もなく呼んでみたりしていた。
長男はホントは「次男・ママ・自分・パパ」の順で寝たいのだが、ふだんから弟が関わることに関しては一切ワガママを言わないようにしているので、これまで大好きなママとくっついて寝るのをガマンしてきたようだ。

しばらくして私は次男を抱いて寝室に戻ってきた。
いつものように長男は私の方を向いて眠っていた。
すると妻が、寝付いた長男が寝る直前に言っていたことを話してくれた。
「さっきね、『ママのほう向いてると、ママを見てなんだかぼく心配になっちゃうから、あっち向いて寝るね。ママも寝てね。おやすみ』って言ったの。なんだか切ない」

長男はいつも明るくして、大人が抱える淀んだ空気を変えてくれている。
でもやはりママのことが心配。大人より情報がないから、不安はなおのことかもしれない。
このところ、寝るとき私に寄り添うことが多かった。
思っている以上にガマンをさせてしまっていることに反省。




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平成23年3月22日
朝から抗がん剤治療のため、病院に向かう。
電車で行く練習もと言っていたが、昨日からの雨もあって車で出た。

この病院の乳腺外科は科長から看護士までチーム全員で治療・カウンセリングにあたる方針となっている。
今日はまず医師と面談し、改めて乳がんのタイプと今後投じられる薬剤の説明を受けた。
最終的なレポートとしては、
このがんは女性ホルモンに依存するタイプと増殖因子によるタイプの両方であること。
抗がん剤でいずれへも攻撃を加えて小さくする。
3週間に一度のペースで、全8回を前後半4回ずつ別の薬を投じる。その後手術をしたのちに、ホルモン剤治療(女性ホルモンを止めて、ガン細胞を飢餓状態にする)を始める。
後半途中からはハーセプチンという薬(抗がん剤のような副作用はない)を始め、一年間継続すること。
副作用もいろいろあるが、今は副作用が出てから和らげる薬を施すのではなく、副作用が出る前に薬を投じるのだそう。車に酔う前に酔い止めを飲むのと同じだ。
脱毛は二週間後にいきなりドサッと起きる。
抗がん剤により、白血球が最も減る、つまりからだの抵抗力が最も弱まるのも二週間後。
等々……。

自分が患者の立場だったら、ガンというだけでただでさえパニックになっているので冷静には聴けなかっただろう。一緒に行ってよかった。

いよいよ化学療法スタート。
リクライニングシートやベッドなど16席に様々なガンを患っている患者が集まる。
シートにはテレビが備え付けられており、投薬時間が短くないことを物語る。
副作用を抑える薬のあと、一時期ほど抗がん剤の投与があった。それは真っ赤な薬剤で、いかにもこの病気の重たさとそれへの薬の強さの両方をあらわさんばかりのまさに毒々しい色。
最後に生理食塩水で終了。

途中薬剤師の説明を受けたが、あとの一時間弱は「ぶらぶらしてくれば」という妻のお言葉に甘え、外出。初回からベッタリだとお互い気兼ねしちゃうから、ということだろうか。以前の来院の際に、病院のそばに古い商店街があるのをリサーチしてあったので、妻も私の行きそうな処はだいたい目星がついていたのだろう。
昔ながらの商店街で、漬物屋、魚屋、お惣菜屋、昔っぽいブティック?が建ち並ぶ。それとなぜか韓国に関わるお店が多いような感じ。出来立てのコロッケから立ち上る湯気やお好み焼きのソースが焦げる匂いに、昼をまたぐ治療待ちのこちらはやられそうになった。
小汚いがイイ感じのラーメン屋の前で寄るか迷っているところに妻から「何か食べてれば?」というメール。どこからか見られているんじゃないか、と思わせられた…。
迷っている間に満席になったので、一旦病院に戻ることにした。
化学療法室につくと、既に妻は帰り支度が済んでいた。

今まで「似合わなくて好きじゃないから」と被らなかった帽子を今後に備えて被る妻。卵型の顔には似合うから、と言っても今まで被ってくれなかったのに。
徐々に自分の姿が変わっていくことへ覚悟はできつつあるものの、帰りの車のなかは言葉少なだった。

妻は私を指して、「そういう明るい性格だと、ナチュラルキラー細胞が増えてガンとか治りやすいんだよ」と言った。笑うとガン細胞が消えるとかなんとか言う話のことだろう。
しかし、ガンになったら常に笑ってなんていられない。
笑うことでガン細胞が減ったという人は、たぶん頑張って笑っていたんだろう。また、周りも頑張って笑える環境を作ったのだろう。

今の私も頑張って笑っている。




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医療用ウィッグの店に来ている。
22日から始める抗がん剤の副作用で、脱毛が避けられないため。
二俣川にあるこのお店では、その場で客の話を聞きながら、セミオーダーメイドでウィッグを作ってくれる。一日で完成。一つ125,500円。

待ち時間に帽子もいくつか購入。
妻は「一個でいい」というのだが、私は「選ぶ楽しみもあった方が良いから」と、幾つか購入した。

この病気がわかったあの日は、東北東日本大地震が起きた日。この一週間、乳がんのことだけで頭が一杯にならなかったのは震災があったから。

被災者のかたの苦しみや悲しみは、当事者でない私たちにはどんなに頑張っても完全には理解しきれない(理解しようとしない、とはちがう)。
同じように、乳がんになった妻の気持ちも本人と同じレベルまでは理解できない。
ただ、出来るのはいつも通りにして、悲しむ姿を見せないこと。
自分の病気で自分が苦しいだけじゃなく、家族も悲しむのはたぶん望んでいないだろう。そう想像して、態度に示すことぐらいだ。

勉強でも仕事でもそうだが、どうせ大変なんだから、なら楽しく過ごせたほうがいい。

少しでも彼女が後ろ向きにならないように、明るい応援団を務めていきたい。





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次男が産まれる少し前に、妻の胸のしこりについて大学病院で診察を受けた。
出産後の診断では「乳腺が発達したことでできたミルクの塊」だった。

平成23年3月11日(金)。
予後の診察で怪しい影を見た医師から勧められた細胞診の結果は、乳がん。
大きさは1.8㎝。
時期的なカテゴリーではステージ1で早期の範囲だが、体の他への転移など調べなければならないことが多く、まだ全く落ち着かない。

女性ホルモンをエサにして大きくなっていくタイプのもの。30代前半の妻の治療は、まず抗がん剤でガン細胞をできる限り弱め、その後女性ホルモンを止めることでガン細胞を飢餓状態にして根絶しようというもの。
抗がん剤の副作用と、ホルモン治療の副作用(更年期の症状に似たもの)との闘いがこれから、この日から向こう10年続く。
これまで母乳で育ててきた次男も、母乳による授乳はこの日でお別れ。
妻は母乳を止める薬を涙ながらに飲んだ。

妻の母は三年前に白血病のため、59歳で亡くなった。
病災は経験したつもりだったが、まさか妻にこんな事態がやってくるとは。

呆然とした。