そこは登山、下山するところなの?:どうする? これから 2024/3/4(21分)

https://stand.fm/episodes/65e504b9995379fc54e6d6ea

 

そこは登山、下山するところなの?

どうする? これから

 

なりた きいちろう

 

そこは登山するところなの?

 

その「頂」を見ると、

あそこまで登るのかと、ため息が出る


かつて「頂」に立ったときの記憶

かすかによみがえる

視界が広がった喜びも束の間

一転、麓の方から雲が湧き上がり

その「頂」への視界が閉じてゆく

遠くから雷鳴も聞こえてくる

 

どこからともなく「下山」という声が響く

誰の声なのか、自分の心の声なのか

考える間もなく

足は「下山」のために動いてゆく

雷鳴も刻々と近づいてくる

「恐怖」を覚えるゆとりもなく

ただ足は「下山」に向かって進みゆく

雨も降り出した

どしゃぶりの雨、

多分、顔は引きつりながらも

膝だけが笑う

ともかく「頂」から遠くに

「麓」の近くに

 

ようやく平らかなる「麓」にたどり着く

「下山」完了

 

やがて

「麓」の我が家で過ごす日々を迎える

今、一喜一憂、悲喜交々の日々を過ごしている

やはり、「登山」せねばならないのではと、思ったり

「登山」が必要なことが起こったとき、

あの緊急「下山」をしたときの記憶がよみがえったり、

「登山」をしている人たちを見ると、

同じように「登山」などできずに

「麓」で過ごす日々を選んだりする日々なの

 

あの山ではなく、

ちがう山に変えてみるという選択肢も

時に考えるのだけれども、

山の高さ低さではなく、

山は山、登山は登山

いずれにしても天の雲いき

雷雨の兆し感じてしまう

 

いつまでも平な「麓」での学びと暮らし

つづくわけないと思いつつ

今ここ平な「麓」の我が家につい居てしまう

 

「過去」の「登山」と緊急「下山」

「現在」の「一喜一憂/悲喜交々」心の中では昇り降り

いっそ過去と現在を飛び超えて

みんなと同じよなコースを離れゆき

誰でもない私らしい、

未だ来ぬ「未来」の物語を想い造る

想造(imagination /creation)世界の人に成ってみる

そんな手もあるかと思う

 

こないだ読んだ『かがみの孤城』

辻村深月さんの小説

意外なことの連続で、

最後の最後のその時までも意外なことの連続だった

 

それぞれに「登山」が怖い、苦手な小さな人たちが

リアルな時空間を超えたその城で

あの山の頂に立てず、緊急「下山」した記憶も忘れて

あの7人が、徐々に近づき、徐々に仲良く、

「助け合う」とこまでやってくる

でも、その超えた時空間で「助け合う」ことは叶わず、

1985年

1992年

(1999年)

2006年

2013年

2020年

これから来る2027年

異なる時代を生きた7人と中学生になれず亡くなった1人

それぞれにリアルな時代を生きる記憶の中で

あの不思議な孤城、摩訶不思議な時空間にて

過ごした意味が染み渡りリアルを生きてゆく

 

でも、『かがみの孤城』の世界の描き方、

小さな人=中学生と

元小さな人=親や先生とのいたたまれない関係性に

どうしようもなさが漲ってる

 

だから、あの小説が成り立つのかもしれない

けれど、それぞれの「登山」と緊急「下山」の経験を

世代や時代を超えて問い返すまではできても

その先はどうなの?

あの7人+1人以外の人たちの織り成す行為

消してしまいたいよなあの子とうまくやってる学級担任、

7人のうちの1人が親/継父から受けた虐待、

別の1人は海外留学する動機や意味にまとわりつく母の存在

公立学校の先生たちへの激しい印象批評

私立や国立だったらいいのってのか?

等々

 

結局、上と下との関係性

左と右との関係性

前と後との関係性

内と外との関係性

ここかしこに在る「権威/権力性」

時に在る「暴力性」を、超えることなしに

「登山」と緊急「下山」の記憶は消えることはない

 

小さな人は元小さな人となったり、

その狭間のグラデーションの小さな人が、

そのことに気づき、それを超えるリハビリはできるのか、

そうした問いかけや呼びかけを描/書く小説って可能なの

描/書けたとしても読まれないことになる可能性

 

でも、

今、一憂・怒哀を感じつつも

誰でもない私らしく、

未だ来ぬ「未来」の物語を想い造る

想造(imagination /creation)の世界の人に成るしかない

「あなた」は残された時間はかなり在るのか、

それとも「私」は多くは無いのか、

ひとり二役「あなたと私」で

「あい*の結晶」生み出してみない?
 

*:「あい」に振り仮名じゃなくって振り漢字してみると、意外と多い漢字さんたち。愛・相・間・合・会・逢・娃・空・隘・阨・藍・挨・哀・噫など、いろいろ。

 

 

解 題

 

「そこ」とはどこか。

登山と緊急「下山」って何のメタファーか。

「登山」の話は、以前のしたことがある。

そこに登る/登らないのではなく「今ここで共に在る意味」を (聴く15分)2023/4/18

https://stand.fm/episodes/643e1eb6265b0131d66364a2
「¿ 雑感 ? 2-23/4/18」(読むWeb Site)

https://genkaikyoukaiekkyo.blogspot.com/2023/04/2023418.html

 

でも、それはなかなか「あなた」のフックにかからないお話だったよう。

 

ところで「登山」と緊急「下山」の話。

私は、メタファーではなく、リアルな経験をしている。

私がまだ中学校の先生をしていたとき、白馬・唐松岳登山をめざす「山の生活1989」の時のこと。

よく晴れた日、一行は唐松岳をめざして登山をしていた。

休憩時にガイドさんから「あそこに見えるのが山頂、あそこをめざしていきます」とのお話。

よし、もうひと頑張りと思い、一行は列をなして進もうとした時、そのガイドさんから「下山、下山します!」と大きな声がした。

命を預けた山岳ガイドさんから、その理由もない「下山」命令

私たち一行はそれに従って、緊急下山を開始する。

下山を続けると、麓から雲が湧き上がり、あたりは雲で覆われたかと思うと、雨、それも豪雨。

そして、遠雷の音が......。

その時、ガイドさんが発した緊急「下山」命令の意味が誰にも分かった。

しかし、その緊迫した状況の中でただひたすら「下山」した一行の中に、滑ったり転んだりする者は1人もいなかった。

一行は無事麓の宿舎に着いた。

その夜、一行は、あのガイドさんからお話を聴いた。

その時、有無を言わさず緊急「下山」を発するに至るまでの、ご自身のヒストリーにあった学びと暮らし.....。

一行は、その凄さ、今の言葉で言えば「神対応」をなさったガイドさんへの畏敬の念を抱いた。

翌朝の新聞を見て驚いた。

白馬唐松岳登山中に雷に打たれて亡くなった方がいたという記事。

その時、あの山岳がイトさんの緊急「下山」命令がなかったら、私たち一行は、あの西穂高での松本深志高校一行のような惨事にまきっこまれていたのではないか、思った。

そんな記憶が本文の数行に凝縮されている。

 

あのときの「登山」と緊急「下山」の意味とこの一文での意味は異なるが、描/書かずにはいられなかった。

辻村深月さんの『かがみの孤城』は、我が師匠からのススメで読んでいた小説。

 

書き手の構想力、想造(imagination /creation)世界の構築の仕方への驚きと感動、そして、まったく異なるキャリアしか持っていない私に果たしてできることなのかと、尻込みしそうにもなった。

 

しかし、自分が自分でしかない唯ひとりの人であり、またささやかなに連なり合う人たちと共に在る中で、想い/描いてきたことからする「違和感」も首をもたげてきたことも事実。

ならば、私にできる/にしかできない「小説」を描/書くしかないかとも......。


この「そこは登山、下山するところなの?:どうする? これから」は、あるリアルな世界におられる小さな人の「あなた」、元小さな人の「あなた」、その狭間におられるグラデーションの小さな人の「あなた」への問いかけであり、

また、もう1人の私(まったく今自分と連想できない筆名の人)が想造(imagination /creation)世界で描/書いている「小説」の中に登場する、ひとり二役、架空の「あなたと私」でもある。

 

付記(2024/3/4)

やめる

もう小説を書いているなどと書いたり、語ったり.......

やめる

これまで当たり前のことどもにかけていた時間を時々?一部?
やめる

決してネガティブなことじゃなくって、「やめる」に色々な振り漢字ができる。辞める・止める・罷る・病る・已める(「ある時・所を起点としてそれより」の意味あり)など。

英語で「やめる」を意味する語句はたくさんあるようです。

 

 

成田 喜一郎

2024/3/4 改訂版

2024/3/3初版