帰納法はいかにして、正当化されうるか。
「明日、太陽が東から昇る」とどうしていえるのか。
根拠といえば、今までそうだったから。という以上の答えはおそらくない。
帰納は時間と空間を越えられない。物理学の法則が明日も成り立つ保証はないし、遠くの星においても我々が知っているような原理と等しい原理が成り立つかの保証もない。
そこで実証主義という考え方が出てくる。
実証主義の理論:「ある命題の確認例が増加すると、その命題はより確からしくなる」
なるほど、例えば「全てのカラスは黒い」という命題について、「これはカラスだ。色は黒い。」とひとつ確かめると、最初の命題はその分だけ確からしくなる、といえそうだ。
そして「これはカラスだ。でも色は白い。」と反証されたらその命題は棄却。
この実証という立場はそれほど問題がないように思われる。しかし、最初に提起したように、帰納法は時間と空間を越えられない。故に、次の斉一性の原理を認めなければその有効性を失う。
斉一性の原理:「特別な事情の変更がなければ、ものごとはそのままに進んでいく」
しかし、ここに実証主義の限界があります。この斉一性の原理は、実証不可能なのです。
このため、反証主義が・・・
と、科学哲学の授業で習いました。
しかし、私はここに実証主義の再興を宣言する!!!
確かに、斉一性の原理を観察或いは実証する方法はないように思えますが。
私は斉一性の原理は時々刻々実証・観察されている、と考えます。
例えば、さっきこの法則は成り立っていた、そして今も成り立っている、と。「さっき」と「今」が1日・1時間・或いは1秒よりももっと小さな時間でも良い、それが少しでも違えばより確からしいと観察できているといえるはずです。この態度によって斉一性の原理は実証されます。
おそらく、ここで問題になるのは、特別な事情の変更があったorなかったが実証できない、という点でしょう。
しかし、そこで人間原理(1つ下の記事を参照)を適用します。
我々の観察には人間原理的な制約がつくのです。これを逆手に取ります。
つまり、我々が観察できるものは、我々が存在できる条件下になくてはならないのです。逆に言えば、我々が観察している限り、我々の存在を許す条件が保たれている、と言えるのです。
もし物理法則にほんの少しでも変更があれば、おそらく我々は存在できないでしょう。そのために、我々と言う観測者が存在していること事態が、特別な変更はなかったと証明しているのです。
我々が存在しているのに、ある命題が成り立たないとすれば、特別な変更があった、といえるのです。
もちろん、他にも実証主義だけで科学を正当化することはできないのは分かっています。
例えば、「量子力学」や「光量子仮説」などは仮説演繹法なので、実証主義だけが科学と認めるとおそらくこれら有益なものまで棄却することとなるでしょう。ちなみに仮説演繹法とは、こうなっているはずと仮定して、そこから推論される結果だけが確認できる場合。例で言うと、光は波であり粒子であると仮定すると、今日の実験で示されているようないろいろが説明できる。決して、光が波であり、粒子であることを実証できるわけではないのです。