第六章「失敗に帰した日本の新秩序」 | ひとときのときのひと

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まずは英語から。

 日本研究の第一人者であるケネス・B・パイル氏。数多くある彼の著書の中でも、「Japan Rising」は、「日本の高揚」といったタイトルが付いているのに邦訳が出版されていません。

 

 なぜ未邦訳となってしまったのか。

 

 その謎を探るため、既に紹介した第一章から第五章に続きここでは、第六章「失敗に帰した日本の新秩序」を翻訳・要約し以下に共有します。

 

 なお、この章は1919年(第一次大戦終了)ごろから1945年(先の大戦終了)までを扱っています。本作品前半の山場であり、ページが多く割かれています。

 

 したがって、要約も前章までとは異なり、文字数が多くなりますが、最後までお読み願います。

 

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0.ワシントン体制のほころび

 第一次大戦後の世界秩序として理想を高くかかげたワシントン体制が、ほころびを見せ始める。日本においては、1930年代の抗日運動、国内経済悪化、ナショナリズムの勃興や右翼の陰謀等がワシントン体制から抜け出す要因となっていく。

 

 また、米国は、世界秩序を国際自由主義(機会均等、門戸開放、領土保全)の名のもと変更しようとしたが、現実的には列強各国が支配下の植民地を手放すことはなかった。

 

 中国に関する門戸開放等を定めた9か国条約においても、租借地や関税不平等など列強の権益は温存されていた。この不徹底さが、日本に独自路線を許すこととなった。

 

1.日本の修正主義の起元

 1920年代から日本国内では、外交姿勢に関して二つの立場がせめぎ合っていた。一つは現実的な立場からワシントン体制で定められた原則を遵守し、日本の国益を守ろうとする立場。

 

 これに対して、「ワシントン体制は日本の帝国主義に現状維持を強いる英米の一方的な締め付けでしかない」と見なし、同体制の修正をはかろうとする立場(要約者注:以下パイル氏の記載通り、この立場を修正主義とする)。

 

 ワシントン体制にそもそも反対していた政治家であり、そして開戦直前まで3度内閣総理大臣を務めることとなる近衛文麿、海軍(米英との建艦競争が契機)、そして陸軍(満蒙を中国から分離する構想や世界最終戦争論)、これら三者いずれもが動機や背景は異なるものの、修正主義を標榜し、1920年代の終わりにはエリート層の中で主流の思潮となっていった。

 

 その後、協調外交の立場からロンドン海軍軍縮条約を締結した濱口(はまぐち)雄幸首相の銃撃事件や、犬養毅の暗殺により日本の政党政治は終わりを告げることとなる。

 

2.秩序基盤の腐食

 1931年の満州事変以降の、日本ではワシントン体制が機能しないことや同体制の合理性に対する疑念を理由に、独自路線でアジアにおける問題解決を図ろうとの動きが加速する。

 

 また、ワシントン体制は、「平和的経済競争は、軍事的闘争に代わりうるものだ」との希望的期待に基づいていたが、列強は世界恐慌後、さかんに輸入制限をはかり、自国経済優先の政策を取った。それは、輸出ありきの日本にとって期待を裏切られることとなった。

 

3.突破

 ワシントン体制のほころびは、日本にとって一種の無政府状態と映った。そのような状況の中にあって、日本は19世紀半ばに開国したときの独立志向よりは、さらに進んだ形、すなわちアジアにおける主導的地位の獲得を目指すようになっていた。

 

 日本の指導者たちは「アジアにおけるモンロー主義(ヨーロッパの植民者締め出し」の名のもとに、満州に深入りし始めていたが、そこには、全体像が欠けていた。また、過去半世紀の経験にあぐらをかく傾向も見られた。

 

4.地域的覇権の追求

 日本の帝国主義初期(1895年~1918年)とは、時代が大きく変わり始めていた。帝国主義国家間のルールが有名無実化し、日本の外部には無秩序な空間が露見されるようになってきた。

 

 そのような状況下で日本は、ワシントン体制で押し付けられた東アジアの秩序を抜け出すことをもくろみ始めていた。外部の秩序に適応するのではなく、自らがアジアに新秩序を構築し指導的立場となることを求め始めていた。

 

 1936年2月の陸軍による反乱(注:226事件)は、文民統制に終止符を打ち、政府内部の分裂を顕在化するものだった。「アジアにおけるモンロー主義(ヨーロッパの植民者締め出し」を打ち出すために、日本は軍部に対ソ防衛、対中防衛、対米防衛という三大義務を課した。そして、どんなにそれが困難であろうとも、既に半世紀乗り越えてきたという自負により日本はアジアの盟主たりうるものと考えていた。

 

5. 新秩序

 1937年に近衛文麿が首相になったのは顕著な事件だった。近衛は「米英の偽善的平和構築が日本の資源や市場に対するアクセスを遮(さえぎ)っている」との見解を示していた。その出自や皇室との親密な関係から「期待される首相」ではあったが、近衛には、時代の大変動を制御する資質が欠けていた。

 

 日本は満州事変勃発後の事態収拾に失敗した結果、中国国内での局地戦から全面戦争への泥沼化を余儀なくされる。また、日本の悪名を最も高めることとなった「南京大虐殺」が起きる。

 

 しかし、近衛は1938年、汎アジアという新秩序を確立するため、中国、満州は日本と協働するものとし、ワシントン体制からの訣別をはかる。

 

6.妥当性の欠如

 日本は汎アジアの理念を構築する必要に駆られていた。しかし、理念より支配という現実が先行していたため、それは非常に難しい作業となった。また、過去の伝統にも求めようがなかった。

 

 そのため、近衛のブレーンである「昭和調査会」からは、自由主義や共産主義を超越する「新日本の思想原理」が発表されたが、そこでは「共同体」志向が強調されており、ファシズム的傾向が強くにじみ出ていた。

 

7.ファシスト体制を模倣

 他のファシズム国家とは異なり、日本の場合、変化する国際環境への適応のために国内体制の再構築を図った形となっていた。大恐慌や満州事変の到来により、軍部の世界最終戦争論者や改革官僚は経済統制と権力の集中化へと舵を切った。

 

 具体的にそれは、ドイツナチズムのような全体主義国家像を意味し、政界では1940年の大政翼賛会の結成につながった。しかし、経済界では財閥が抵抗したことにより、その解体は終戦後まで実現しなかった。

 

8.「忌まわしい二者択一」論争

 日本の指導者は、(米国主導の)新秩序は忌避し、むしろドイツ・ファシズムが欧州を席巻するのに乗じようとしていた。第一次大戦における欧州情勢が日本に「天祐」をもたらしたことから、「柳の下のどじょう」をねらった。

 

 しかし、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ日本に対して、米国が懸念を示し続けていたのにもかかわらず、日本は軽視。読み間違えをしていた。

 

 米国は、日本への鉄、そして石油の禁輸政策を打ち出し、禁輸解除の条件としてワシントン体制への帰順を促した。すなわち、門戸開放を受入れ、中国・インドシナからの完全撤退を日本に強く求めた。

 

 しかし、この要求に対して日本は、「満州事変以前の小さな日本に戻そうとする以外のなにものでない」と拒否した。

 

 日本は、8倍以上の国力を有する米国と戦うべきか、それとも(米国に従属し)帝国として獲得した領土や支配的影響力を手放すべきか、この忌まわしい二者択一を迫られる。日本はあえてリスクを取って後者を選ぶこととなった。

 

9.地に墜ちる秩序

 真珠湾攻撃に端を発した日本の攻勢により、アジアの多くの地域が新秩序「大東亜共栄圏」のもとに解放されるかに見えた。が、資源獲得などを目的としていた点や占領地域を永久に従属させようとした点で植民地主義の域を出ないものであり、理念と実態が矛盾していた。

 

 優勢を保てなくなった日本は、資源も失い、アジア諸地域に対して恩恵ももたらすこともできなくなり、占領政策における変更(懐柔)をはかった。

 

 さらに日本は、本土決戦を辞さない構えであったが、広島・長崎への原爆投下やソ連の参戦により、天皇による終戦の決断が下された。

 

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