ひとときのときのひと

ひとときのときのひと

広告業界で鍛えたから、読み応えのある文が書ける。
外資系で英語を再開し、アラカンでも英検1級1発合格。
警備業界にいたから、この国の安全について語りたい。

そんな人間が、ためになる言葉を発信します。


まずは英語から。

 たとえば中学受験の国語、いや、高校時代の現代国語でもいい。その扱い方に違和感を感じていた記憶はありませんか。

 たとえば「走れメロス」であれば友情の尊さ、「坊ちゃん」であれば未成熟な知識人への戒め。

 いつの間にか、テキストの読み方が道徳的な方向へと導かれていくのです。

 こうした経験は、学生時代に限った話ではないでしょう。大人になった今でも、新聞、テレビ、ネットを問わず、知らされた出来事そのものより、その出来事に「どういう意味があるのか」「どんな教訓が引き出せるのか」を、無意識に探してしまう人間になってしまっています。そんな人間に成り果ててしまったとさえいってもいい。

 分かりやすく、整理され、納得できる筋書き。それがなければ、不安で落ち着かない。そのような読者(視聴者)としての姿勢の問題点を、強く気づかせてくれる一冊が、David Szalay の小説『Flesh』です。

 本書は、英語中級者であれば比較的スムーズに読める体裁です。というのは、文字が大きく、行替えも非常に多く、ページあたりの情報量は少なめです。翻訳は出ていませんが、英語のいわゆる中級者であれば辞書などなしにページをスピーディに括っていくことができます。

 ところが、読み始めてすぐに、奇妙な感覚にとらわれるでしょう。というのは、ストーリーは確かにあることはある。しかし主人公は、どうにも冴えません。恋愛もうまくいかず、学業にも特筆すべき点はなく、目立った意志や信念も感じられない。ところが、人生はなぜか上向いていきます。

 しかし、ここからが問題なのですが、本人の努力や判断とはあまり関係なく、状況が次々と変わり、社会的にも成功者と呼ばれる立場に収まっていくのです。

 しかも、主人公と周囲の人間とのあいだで、深いコミュニケーションが成立することはほとんどありません。葛藤も対立も、感情の爆発もない。物語として期待される山場が、意図的に外されていく、そんな不思議な展開が最後まで継続していくのです。

 象徴的な場面があります。主人公が幼い子どもと過ごしている最中、突然、携帯電話が鳴ります。主人公が通話しているあいだ、子どもは少し離れたところで犬に近づいていく。読者はもしかしたら、と思わず身構えます。しかし、何も起こりません。

 こうした「何も起こらなさ」は、本書の随所で繰り返されます。そのたびに、気づかされるのです。自分は、どれほど強くコンテンツの中に「物語」だの「教訓」だの「意味」だのを探していたのだろうか、と。

 したがって、この小説を読んで得られるのは、「読んでプラスになった」というよくある満足感ではありません。と言っても、それは「何も残らない」ということでもありません。

 むしろ、読み進めるうちに、私たちは何度も立ち止まらされます。出来事をすぐに理解し、評価し、物語として整理しようとする自分自身の姿が、はっきりと見えてくるからです。

 もちろん、生きている以上、教訓や意味づけを完全に手放すことはできません。それは人間として、ある意味当然のことです。
この本、『Flesh』によって目を開かされるのは、物語や教訓を否定することではなく、「何事にも物語化を試みたり、教訓化したがる自分」の横暴さ、あるいは、単細胞ぶりです。

 かつて、報道とは単なるニュースの羅列ではなく、「わかりやすく」「おもしろく」といった形で伝えるべきだ、それが新しい、それが有効なのだと思われていた時代がありました。いや、今もそうなのでしょう。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。

 確かにその試み自体は、多くの人に情報を届けるための善意や創意で始まったのかもしれない。しかし、人間の営み、あるいは、出来事といった種類のものは、そんなに簡単に「物語化」したり「わかりやすく」していいかは、大いに疑問です。

 出来事をすぐに物語にしてしまい、「わかった気」にさせてしまうプロセス。その一見すると「親切さ」のようなものが、実は相当な「おせっかい」あるいは「問答無用の暴力」を携えているのかもしれない。そう疑うことは、よりまっとうな人生を送るためには、決して無駄ではないでしょう。

 この一冊には、いままで気づくことが希薄だった部分を強烈に覚醒させる力があります。一読をおすすめします。

 

 
 
 
 
 

 

 

 

 
 

「こうありたい」「こうなりたい」。それが一体何なのだ。自己実現だの達成意欲だの、それは生きる上で不可欠なものなのか。と思ったことはありませんか。

 かといって癒しやスピリチュアルといった世界に身を委ねれば、すべてがうまく回り出す…いやいやそれも疑わしいでしょう。

 つまり、目的設定をして猪突猛進することにも、ただただ修行僧のように沈潜することにも、違和感が否めない。そんな感覚を抱えながら、悶々と日々を過ごしているのであれば、この一冊は、思いがけない一種のすがすがしさをもたらしてくれること、請け合います。

 

「メトロポリタン美術館と警備員の私」です。

 本ブログ筆者は、題名の「警備員」というところにまず目が留まりました。自分にも警備員の実務に携わった経験があるからです。

 もっとも、読み進めるうちに、この本は警備員そのもの、あるいは美術館そのものが主題でないことがわかってきます。

 

 作者は、アメリカの代表的な雑誌「ニューズウィーク」に新卒入社したものの、その数年後、20代半ばで実兄の病死に遭遇します。

 この出来事をきっかけにニューヨークはメトロポリタン美術館の警備員として働く道を選ぶのです。引用してみます。 

 数年前から、ニューヨーク巨大な美術館で働く男女がいることに気づいていた。研究室に身を隠す学芸員ではなく、ありとあらゆる部屋の角に立って監視をしている警備員である。私もその一員になれないだろうか?前へ前へと進み続ける世界から抜け出し、このひたすら美しい建物の中で一日を過ごせる。そんな抜け穴が本当にあるのではないだろうか。
 
 
 

 いかがでしょうか。

 ただし、作者は、美術大学の出身ではなく、絵画や彫刻、あるいは歴史的遺構に詳しかったわけでもありません。

 作者は、実兄の死という重い現実にぶつかり、「もっと静かな空間に身を浸し、落ち着いた心で毎日を過ごし生きてみたい」との切実な思いから、未経験である美術館警備の世界にあえて飛び込んだのです。

 したがって、この本では、勤め人としての「ステップアップ」の話は一切出てきません。また、日本でよくある、警備員生活を卑下するような語りもありません。

 全米一の美術館に配置された歴史的遺構や名画などに対するきわめて自由な批評や見解が展開されていきます。

 もちろん、彼自身はこの10年の間に結婚をし、二人の子供を設けるにまで至る。そういったごく日常的なシーンも描写はされてはいます。

  つまり、警備員生活が、冒頭で展開された詩的なものから、散文的なものへと移ってはいきます。しかし、根底にあって全体を貫徹しているのは、実に地味で反復的な世界に身を浸すことの貴重さなのです。

 その象徴的な例があります。いよいよ彼が10年間の警備員生活に終止符を打とうとした頃、ミケランジェロの作品と彼の制作日誌などを目にしながら、この不世出の天才でさえも、毎日が刻苦勉励の日々であったこと、そこには実に地味で反復的な時間が流れていたことを知るのです。

 この本で伝わってくるのは、人生には前に突き進むことでも、開き直ったりすることではなく、まさに「その場で立ち続ける」ことでしか引き受けられない時間がある、という平凡に見えて類稀なる発見なのです。

 万人向けではありませんし、クライマックスらしいクライマックスのない書物ではあります。

 しかし、その静かな語り口にずしりと動かされる、そんな力に満ちています。ぜひご一読ください。

 
 
 ちなみに、本ブログ作者の警備員体験から申せば、この本の著者のような職業経験は日本では望み薄です。というのは、彼はこの美術館に直接的に雇用されているようなので、10年も携わることが可能だったのです。
 
 これに対して、日本では、警備会社が美術館なり、企業のビルなどに対して「請負」という形で警備員を派遣しています。直接雇用されていないのです。したがって、警備会社の一員として、他の施設への「転勤」や「転属」などを命じられる可能性が高いのです。ずっとある施設だけの警備員として勤務する例は、あるとえばありますが、10年以上も勤務し続けるような例は多くはありません。
 
 

 

 
 

結論:この本は「日中友好楽観論」を静かに厳しく否定する一冊である。

『日中外交秘録』は、中国を理解すれば関係が改善する、という楽観論を静かに否定する本である。元・駐中国大使である垂水秀夫氏は、中国外交の現場で繰り返し経験した「交渉の非対称性」と日本外交が抱える構造的制約を、具体例をもって記録している。本書の価値は、理念や理想ではなく、外交の現実を一次証言として示している点にある。

 

 


要点① 「合意」よりも「圧力」、それが中国外交の本質

垂水氏が一貫して描く中国外交の特徴は明確だ。

  • 文書上の合意よりも

  • 発言の一貫性よりも

  • 国際ルールよりも

「力関係」と「時間」を使って既成事実を積み上げる

そのため、日本側が誠実な説明や理詰めの交渉を行っても、それが同じ土俵で評価されることは少ない。

ここに、「なぜ日中交渉は噛み合わないのか」という根本原因がある。


要点② 日本外交は「国内向け説明責任」に縛られている

本書が繰り返し示すもう一つの現実は、日本外交が国外よりも国内を向いて行われがちであるという点だ。

  • 世論

  • 政治日程

  • メディア対応

これらが外交判断に強く影響する。結果として、外交現場で必要とされる柔軟性や即応性が制限され、中国側の長期戦略と非対称な関係に陥りやすくなる。垂水氏の筆致からは、外交官としての無力感と現実認識が淡々とにじみ出ている。


要点③ 尖閣・台湾問題は「個別案件」ではない

本書では、尖閣諸島や台湾問題が単発の外交課題としてではなく、中国の対外戦略全体の一部として描かれている。

  • 尖閣問題

  • 台湾情勢

  • 日米同盟

これらは相互に連動しており、日本が「現状維持」を選び続けること自体が、必ずしも安定につながらない可能性が示唆されている。本書は、日本の安全保障が置かれている位置を冷静に再認識させる。


この本が突きつける現実

『日中外交秘録』が最終的に読者に突きつけるのは、
次のような問いである。

  • 本当に「分かり合える外交」を前提にしてよいのか

  • 価値観の異なる国家と、どこまで協調を期待できるのか

  • 日本は自国の制約を正しく認識しているのか

本書は、
中国を悪者に仕立てる本でも、日本を正当化する本でもない。幻想を排し、前提条件を見直すための記録である。


他の日中関係本との違い

本書の最大の特徴は、学者でも評論家でもなく、現場の外交官が書いている点にある。

  • 理論よりも経験

  • 主張よりも事実

  • 評価よりも記録

この姿勢が、
他の日中関係本にはない重みを生んでいる。


どんな人に向いているか

この本は、次のような読者に向いている。

  • 日中関係を感情論でなく理解したい人

  • ニュースの背後にある外交の力学を知りたい人

  • 安全保障を現実的に考えたい人

一方で、軽い読み物や明快な解決策を求める人には向かない。


まとめ

『日中外交秘録』は、安易な「希望」ではなく厳しい「現実」的視点から日中関係を考えるための本である。読み終えた後に残るのは、安心感ではなく、「前提を見直す必要がある」という静かな警告だ。それこそが、本書の最大の価値である。

 

さらに本書について詳しく知りたい方は↓をクリックしてご一読ください。よく読まれています。

 

 

 

 ハンサムではないものの、どうみてもベビーフェイスの若者がいる。その若者のピアノが「べらぼう」にうまい。

 しかも、彼は世界のあちこちを巡る演奏旅行記を書いてしまった。堅苦しいクラシックという範疇を軽々と飛び越え、ヨーロッパの風景写真や、各地のグルメに関する話題まで盛り込まれている。

 このピアニストのファンではありませんが、六歳のころから六十年以上、ほぼ毎日ピアノに触れてきた一人のアマチュアとして、一度きちんと目を通しておくべきだろうと思い、手に取りましたーー藤田真央著の「指先から旅をする」と「指先から旅をする2」の2冊です。

 

 この2冊をベストセラーにさせた原動力は、敏腕編集者として知られる黒岩里奈氏(夫はチームみらい党首、安野貴博氏)の企画遂行力にあります。従来の「ピアニスト本」とは異なる切り口で、ここまで大胆な構成を実現してしまった手腕には、率直に感心させられます

 象徴的なのは『指先から旅をする』の表紙写真です。

 

 

 木立の中でピアノを弾く藤田の姿は、一見するとCGのようにも見えます。ところが、黒岩氏と現地スタッフの機動力によって、屋外にスタンウェイを一瞬の間に運び込み、時を置かず撮影されたものだと知り、正直驚かされました。

 本ブログ筆者は、50代半ばまで広告の仕事に携わり、ロケ撮影の現場もそれなりに経験してきました。屋外での撮影が、どれほどの調整と交渉と運を要するかは、身をもって知っています。海外で、しかもこんな荒仕事を短時間で実現させたという事実だけでも、この本が相当な「ちから業」を駆使していることが伝わってきます。

 ピアニストによる著作といえば、中村紘子の一連の本を思い出す方も多いでしょう。若い頃は本ブログ筆者も楽しく読みましたが、いま振り返ると、どこまでが事実で、どこからが語りの演出なのか判然としない部分も少なくないと言わざるをえないのです。

 その点、藤田の文章には別の種類のリアリティがあります。海外公演の際、リハーサルのため会場に入ろうとして守衛に止められ、人種差別ではないかと訝ったこと。

 あるいは、共演する指揮者は演奏会場まで送迎の車付きなのに、自分は徒歩で往復していたこと。そうした地味な日常を、照れも誇張もなく記している点には、好感を覚えました。

 いわゆる「芸術家臭さ」、あるいは自己防衛的な虚勢がほとんど感じられない。その無防備さが、この本の読みやすさを支えているのは確かです。

 ただし、読んでいて「これは少し不用意ではないか」と感じる箇所も、ありました。

 たとえば、バイロイト音楽祭でワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を藤田が観た帰りの一節です。客席で隣り合わせた日本人紳士から、「真央さんのチケットはどうにも手に入らなくて」と声をかけられた際、「バイロイトのチケットよりは簡単に入手できますよ」と返した、というくだりです。

 藤田のまさにウソ偽りのない、正直な感想なのでしょう。しかし、コンサートのチケットが取れないと嘆く普通のファンに対して、この言葉を口にするのは、やはり少し危ういわけで「このボンボン、大丈夫かいな」と言いたくなります。

 たとえば、あなたがアメリカはスーパーボウルの試合会場で大谷翔平選手に偶然出会い、「あなたの試合のチケットがなかなか取れなくて」と話しかけたとします。ちなみにスーパーボウルとは、チケットの入手がきわめて困難なことで知られるアメリカンフットボール最高峰の大会です。

 そのとき、「ドジャーズのチケットなんか、スーパーボウルのより簡単に取れますよ」とにべもなく返されたら、どんな気持ちになるでしょうか。

 この本の敏腕編集者は、一種の失言と判断し、藤田のこのまじめな返答を削るなり修正することができました。にもかかわらず、この一節をあえて「ママ」で残したのはなぜなのか。

 もしかしたら、藤田真央という芸術家の底知れぬ「純粋さ」を、記録として「どうしても刻みたい」と考えたのかもしれません。

 とはいえ、それが本当に藤田の芸術家人生にとって好ましいことなのかどうかは、非常に考えさせられる問題ではないか。そんな異議申し立てを、本ブログ筆者はこの電子空間に「どうしても刻み」伝えたいと思います。

 前半で述べたように本書は、旅、食、ピアニストの舞台裏、ディスコグラフィー、演奏記録と、あらゆる要素が盛り込まれています。例えるなら、チョコレートパフェの上に、さらに数えきれないほどの果物を重ねたような豪華さです。

 その一方で、後半に紹介したような「芸術家における純粋さとは何か」「編集者のアーチストに対する距離感」といった問題を改めて考えさせられる一冊でもありました。

 藤田のファンならずとも、音楽好きな方であれば、まずはその情報量と勢いに圧倒されるでしょう。

 むしゃむしゃ読める一方で、どこか苦くて危うさを感じさせる。そんな不思議な味わいを楽しめる本として、一読をおすすめします。

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 2週間ほど前、神保町の小さな書店で耳にした会話が気にかかりました。

「一晩で読んじゃったのよ、この『爆弾犯の娘』」

「そうなの?じゃ私も買ってみる」。

 売り場に近いところで客が噂しあうような本は「当たり」。そんな経験則をもとに早速、手に入れてみました。

 確かに一晩で読ませるチカラはあるにはある。その意味では圧倒されました。

 しかし、口当たりの良さとは対照的と言っていいくらいのざらりとした感触が残りました。コピーライターの駆け出しの頃、上司から「お前のコピーさあ、なんか生っぽいよな」と言われたときの「生っぽい感じ」と言い換えてもいい違和感。

 本書の導入には高橋判明監督による映画「桐島です」の脚本依頼が置かれています。著者を爆弾犯の娘と知っての話です。

 しかし、「桐島です」の主人公桐島 聡といえば、1974(昭49)に起きた三菱重工ビル爆破事件(死者8名、負傷376名)に大きくかかわった一人。約半世紀者逃亡の末、死の間際に名乗りを上げた人物です。その圧倒的な事件の映画化や脚本依頼が冒頭に据えられる以上、本ブログ筆者もつい「あの事件にかかわった人物の肉親が書いた本か?」と身構えたのです。

 ところが、この「爆弾犯の娘」にとって父親にあたる人間は全くの別人物。1971年の「新宿クリスマスツリー事件」に係わった人でした。確かに重軽傷者は出ましたが、死者はゼロ。

 戦後テロ史においては、先に述べた爆破事件と重大性が大きく異なるのです。まずは、「歴史上の一大事」のさらに奥底が語られているかと期待したたのに、あっけなく落胆を感じさせられました。

 もうひとつの落胆の理由は著者の語り口に関してです。

 著者は既に脚本家として十分な実績を持つ人です。本来であれば、もう少し違った語りができたはずです。しかし、どこか「つらかった自分の話を聞いてほしい」という調子で述懐が進みます。

 「爆弾犯を父親に持ったことで遭遇した数奇な自分な人生」に対して熱を込めて話す口調がそのまま書籍化されているといっても過言ではありません。

 たとえば、かつてある相撲取りがタレントになり、成功したものの不治の病に倒れた時、「なぜおれがこんな目に遇うのか」といった肉声をある番組で流していました。

 しかし、アフリカ系アメリカ人のテニス選手として初めてウインブルドンというグランドスラム大会優勝をものにしたアーサー・アッシュは、エイズに罹患した後、「自分はこの不運を嘆くよりも前に、ウインブルドン優勝のような幸運をも得たことをもあわせて人生といった者の不思議を考える」といった意味のメッセージを本に書き残しています。

  このような自分の不運なり、幸運なりを一度相対化してみる視線が無ければ、そこにあるのは、未成熟な語りとしか見ようがありません。

 せめて、高橋判明監督との対談なりインタビューを巻末にでも併載すれば、そのような「相対化の装置」が一つでもあれば、「語り」がもっと拡がりをもったものになっていたでしょう。

それがないため、物語がまさに個人の物語に終始、「内側に閉じたまま」になっているのです。毛色の変わったのろけ話を延々聞かされているときに感じさせられる「白け」がどうにも否めません。

 繰り返しますが、一読の価値、一晩で読ませるチカラはあります。 

 

しかし、背負ったものが重ければ重いほど、語り口なり表現の工夫、巧みさ、仕掛けが肝要ではないでしょうか。本書はその一歩手前で座礁してしまっているようで残念でなりません。