最近巷では「フリーターの気持ちが分かる国会議員」とやらがもてはやされている。私も自慢ではないが正社員、フリーター、ニートの全てを経験しているから是非ともチヤホヤして頂きたいものである。と言っても、当時はまだニートという言葉は一般的ではなかったが…。


フリーター:主にアルバイトをして暮らす人を指す。非正社員という観点から見れば、派遣や契約社員も該当する。もちろん学生や主婦は対象外。


ニート:アルバイトすらせずに日々を過ごす人。働く意欲もなければ勉強もしない。



アルバイトすらやらない(意欲がない、能力がない)ニートは正直よく分からない。資産家の両親のスネかじりをして自由気ままに過ごす者もいれば、精神的な問題で引きこもっている者もいるだろう。ニート人口の拡大が話題に上っているが、いまいち実感がわかない。働きも学びもせずダラダラ過ごすような者が本当にゴロゴロいるのだろうか?


だがフリーターとなれば話は別。

街を歩けばフリーターに当たるというぐらい、最早当たり前の現象になっている。それに今や彼らは日本経済の重要な歯車である。

マクドナルドやセブンイレブン、パチンコ店やゲームセンター。その多くは1~3人程度の正社員と多数(仮に10人)のアルバイトで構成されている。もしこれがアルバイトじゃなかったら正社員は1店舗に合計13人居ることになり、当然ながら人件費は大きく跳ね上がってしまう。その結果¥100マックは打ち切られ、セブンのペットボトル一部値下げも取りやめ、ゲーセンのメダルは割高になり、高設定のパチンコ台に巡り会う機会が激減して苛立つギャンブラーが増えるかもしれない。

もちろんフリーターでない学生や主婦のアルバイトもいるが、両者共にシフトの融通がきかず、後者はサービス業には付き物の年齢という問題もある。そこへ行くとフリーターという万能駒は非常に扱い易い。



フリーターは何故フリーターであり続けるのか?

フリーターは何故正社員にならない(復帰しない)のか?


フリーターにも種類があるから一概には言えないのかもしれない。

(ミュージシャンや資格試験等)を追い続ける為にフリーター。

卒業後、何となくフリーター。

一旦就職し、退職後にフリーター。


だが共通項はある。

正社員は“負担が重過ぎる”のだ。


夢を真剣に追うには正社員という肩書きはズシリと重くのしかかる。不可能とは言わないまでも、毎朝6時半起床、1~2時間の満員列車で通勤、職場では過度のプレッシャー下で労働(この点が学校との決定的な違い)、夜は8~10時頃までの残業は常、そして帰宅する頃にはその日が終わろうとしている。風呂に入って寝て、また6時半起床。そして出勤。定年退職まで何十年とこの生活パターンの繰り返し・・。この一体どこに夢追う時間的精神的余裕があるというのか?だが達人と呼ばれる者達は、重箱の隅を突くようにして時間を確保し、努力を重ねるのだろうが・・。


何となくフリーターになった者。

彼らも正社員の重さを敬遠してフリーの道を選んだのだ。

やりたいことが見つからない。適職が分からない。まだ遊びたい。社会に出るのは嫌だ。理由は様々だが、結局はフリーターの気楽さに惹かれたのである。


退職後にフリーター。

社会(正社員としての)の荒波に屈した者、戦ったが大きな力には敵わなかった者、不当な扱いをされた者、疑問を抱いた者。彼らも正社員の負担から開放されるべくフリーの道を選択。



フリーターと正社員を隔てる大きな壁。

それもそのはず、フリーターの作業レベルは高校生アルバイトのそれと大差ないため、卒業後実にスムーズにフリーター入りできるのだ。学生アルバイト経験者なら技術的にも精神的にも全くといっていいほど不安はないだろう。


だが正社員となると…

学生生活を終えると同時に戦場に行けと言っているようなものである。平穏な日常が一転、前述の地獄の生活パターンが待ち受ける戦地に赴けと命じる。

しかも最終学歴までの全教育過程で“社会を生き抜く力”を養成するカリキュラムなど存在しない(ビジネス学部等があればやるだろうが、それはあくまで例外)。偏差値や内申点に相応しい学校を薦めたり、就職後ではなく「就職活動」を突破するテクニックを軽く教えたりするのみに終始する。


パンツ一丁のところへ赤紙が来るようなものだ。

何ら装備や準備が至らぬところへ、強制的に「社会に出ろ」である。

しかし平成の世に神風特攻隊はいない。だからフリーターが増えるのである。


人間にも種類がある。

学校に頼らず独自に様々な経験を積む者は、少なからず生きる力を得てスタートダッシュを効かせて社会に巣立つだろう。だがアクティブな人間ばかりではない。ぐうたらがいるからアクティブという言葉がある。世の中皆アクティブなら、彼らの持ち味は生きず、その他大勢として埋もれてしまうに違いない。


一体何のために学校はあるのか?

教育はあるのか?

散々勉強して挨拶すらままならない英語教育と同じである。それでも英語はまだマシだ。主要なカリキュラムとして存在するのだから。

「人間力」を養成する授業は存在しない。

少なくとも高校を卒業する時には社会に出しても恥ずかしくないレベルの人間力が身につくようなカリキュラムが必要である。
教育は皆に平等であるはずだ。

「そんなの自分でやれ」の一蹴では余りにも投げやりだ。

教育の現場がしっかりしていれば、新卒時の人間力格差が是正される。少なくとも何もやらない今以上には。