※ここでは事業で成功した方を、成功者という表現で書いています。

所持金が無く起業する
果たしてそんな事が
可能なんだろうか

世の中には
そんな話しをする成功者を
YouTube動画などで
見かける事がある

だけど最初は
その様な人たちでも
アルバイトなどで
小銭を稼ぐ事から
出発している

その後、自分の得意分野から
試しながら収益化する事業の
元になるものを始めている

彼らは、アルバイトと起業を
どの様に両立させ
接続させて顧客確保し
やがて自分の事業を
大きくしたのだろうか

事例として書いているのは
無料に近いもの、身近にあり
あえて他人(ひと)がみずから
それを商品にしないもの
それを売り(物)にして
事業資金を創り出している。

本当のところは判らない
成功した人のストーリー
として美しく書いている
だけなのかもしれない

そんな美談と同じ様な事を
真似して成功したという
そんな話を載せている
成功者も見かけないかな

成功者が成功したのは
例えば、何だろう?
身近にある、敢えてそれを
手間を掛けて使わない物

特段凡人には
手にするだけがやっとで
他人にとってそれが
どんな価値になるのか
知る由もない、そんなもの

それを成功者から見れば
ニーズがあるもの
あっても手に入りにくい物

その価値が
「君にはなぜ判らないんだ」
そんな物を欲しい人達へ
繋げている。

成功者は最初から
その感覚(観る目)がある
その違いなんだろう
と思う

捨て置かれている
本当は価値のある物を
つまりほぼ無料の中から
見つけて
それを現金化する能力

その後それを元手に
本来なら高額であるものを
価値があっても所有者が
価値が判っていないもの
それを買い入れて

綺麗に整えて
それが欲しいという人へ
高額で転売して手にした
資金を基に
例えば中古住宅を購入
それをリフォームして
転売などで
大きなお金を動かしてゆく
この時点で最初の所持金とは
かなり比べものにならない
大きなお金を手にしている。  

ここまでの話しを書いてきて
日本の昔話しの『わらしべ長者』を想い浮かべました。

現実でも、このわらしべ長者のような事を成功者と呼ばれる人たちは行っているんだ。

そんな少しほっこりする様な気持ちになりました。

起業に大切重要なことは
昔も今もひとが気づかない
ほんとうは価値があるもの
それを「欲しい人へ繋げる」
つまり「売る」という事
なんだな






わたしたちの日本は現在65歳以上の方が3人に1人という高齢化社会になりました。

そして世界の様々な国の富豪の人々は、長生きでは無く生命そのものの永遠を得ることを目指しているようです。

不老不死は、古来より権力と富を手にした権力者が求めてきたものですが、不老不死の薬は現実的では無い」と思います。

それよりもわたしは、「人工知能AIが今後進化することにより人類とどんな関係になって行くのか」という問いからこんな事を想いました。

量子コンピュータとか自己プログラムを作成してゆくようなこれからのAIと共存できるのは
「人類の集団脳でしかないだろう」というものです。

それは、SF的に思えるかもしれませんが、例えば、Wi-Fiの様なもので世界80億人類の脳を繋ぐ

そうなった場合、人類ひとり、ひとりが別々に思考する一年がひとつになり、その結果80億倍の思考の塊りになる

そうなれば、1年で80億年の進化を人類にもたらすことになるのと同じではないかというものです。

更にそれだけではなく、それが可能になった場合、これこそがあの大富豪や権力者が望んでやまなかった「不老不死」と同義になるんじゃないか、というものです。

個々人の記憶や考え方が全て80億人に共有されることは、
つまりは、
「肉体ごとには寿命はあるとしても、例えばそのひとが80億の人の中で生き続けること」と同義になる。

その人の意識や思考、心はその80億人の繋がった「全体脳」の中に残り続けてゆく事になるのだと思う。

ところでその場合には、お互いの事が筒抜けで「つまり隠し事が無くなる」という弊害も発生する。

つまり「恋愛とかも難しくなるかな」とか、逆に「詐欺なんてできなくなるよね」という良い事も発生する。

とここまで書いたところで
何故か不思議にも、わたしと同じ様な考えを持つ人が他にもいることを知りました。

そしてわたしはその時こんな事を想いました。それは「こうも考えられるのではないのか」

わたしがこの発想を思考したとかでは無く、もしかしたら
「他の人が考えた」若しくは「生まれた時から既に知っていた。」

だとすれば、人の脳をわざわざ繋がなくても、、、
「人類は、最初から「繋がっている」のじゃないのかな

そんな人類の集団脳・集合意識は、人類に最初の最初から在るんじゃないのかな、、というもの

それは物質である人間の量子も
「波動と粒子を併せ持つ存在」なので、物質としての境とかいう
「そんなものは無いんだ」という最初の前提です。

とすれば、「人間は集合意識という実態である。」というものです。

そんな「量子もつれ」の様な関係で人間がある、と考えたら人類の歴史のなかで何千年もの昔からある、
例えば、文明の交流が全く無い遠く離れた場所に暮らす人々が共通として「神」という存在を持っている。
そんな不思議な偶然も理解できる。
神という存在が実は人類全体の
「集合意識」によるもの、という考えです。

なぜなら
人類を正しく導く「全知全能の神」という存在を考えた時、つまりわたしたち人間以外の存在としての「神」が在るとしたら
その神が人類を裁いたり、導いたりを物理的にできるはずです。

全知全能の神であれば、「人に悪事をさせない」とか「飢えをもたらさない」とか「病をもたらさない」etc、etc
その様な事が全て実現可能なはずです。

しかし現実では「神の」そのような力も導きも日常的に具現化してはいません

それを「神」とは「人類全体の集団脳」だと考えるとすっと理解できます。

神が人類全体の集団脳によるものであれば、あの人もわたし、この人もわたし、という、つまり全人類がわたしなので裁いたり、裁かなかったりも全てわたし

現象(物質)としては危害も苦しみも当然あるのですが、それは人の心や思考の実態ではない物質の出来事、で実体である人間は

人類集団脳であり、現象・物質を持たない全体意識が存在であり、実態になる。

この「集団脳・集合意識」からは、よく不思議に思われる「引き寄せの法則」までもが見えてきます。

引き寄せで引き寄せられるものは、現象(物質に関するものなど)ですが、例えば、あの人が好きというときの心の引き寄せもあります。

つまりわたしたち個々人は、神である人類集団脳・集合意識は、ホストコンピューターから分岐した個々のAIの様に分かれていて別々に現されている。

そのため日常生活では全く意識的にその存在をもとにした引き寄せの法則は使えない、つまり「全体脳」からは個としての存在

とても普通では起きそうもない不思議な出来事に人が遭遇したりするのは、
この「人類全体脳・集合意識」に(個別の自己意識が弱まった時に)接続した時に起きる体験なのだと考えられる。

デジャヴ(既視感)や虫の知らせとかもその全体脳・集合意識に、繋がった時に起きる現象なのでしょう。







量子は波動と素粒子をあわせもった波粒の存在


仏教のなかにあるこの世界の実相を現したものが

色即是空

色(しき)物質

空(くう)は何も無い


つまり色即是空は

物質が全く何も無いと同じだという意味になる


これは場にたいする存在を現している


場と物質(波粒)


宇宙の始まりは138億年前であると現在の科学では考えられている


始まりが在った

ということは

この今の宇宙が在る

以前が在ったことになる


以前は「場」だけで何も無い


その何も無い場からどうして宇宙が現れたのか


ここでもう一度量子に戻る

色即是空の波粒がいっしょだよに戻って考えると


宇宙が始まる前と繋がる

それは

物質があるこの今の世界と

宇宙ができる前

つまり何も存在しない場

とが繋がる


この世界そのものが

そもそも何も無い

波動から出来ている


それはもともと何も無い


時間も空間も物質も

何も無い


例えれば存在そのものが

はじめのはじめから無い


在るのはひとの思考

意識


つまり物質では無い

ひとの思考だけが存在する


量子(素粒子)は人が

観測する前は波動


観測する瞬間や

観測する予感で

物質化する


波動は場にある

波動エネルギー

つまり見えないもの


物質では無い


時間では無く

場に対しての波動


永遠に変化は無い


場には時間も空間も無い


場に在るのは

永遠の思考

時間が無い永遠


時間が無いのに

永遠であるとは

場自体が無限に

ひろいということ


すべての出来事が

同一に場に存在する


「場」


とは何んだろう


人がなくなっても

場はそのままにある


場にはすべてが無限に

時間の無い永遠に

存在や出来事が在る


それはひとである

わたしが無限に創り出した物事も存在する


無限には無限の出来事や物事が始まりも無く存在する


それはわたしのパソコンにある記憶装置のデータの様に時間に関係無く同じひとつの「場」に存在している


そのひとつの「場」から取り出すことができるのは

自分自身


つまり「わたし」


同一場のなかから

無限の事象のなかから

取り出せるのは


わたしなんだ





雨上がり

西に開く茜いろの空
こがね色に輝き

たなびく雲



眩しく

光輝くふちどりが

幾重も流れ



光は川面で輝き
わたしは橋の途中
その茜色の宇宙を

眺めていた


空が光の塊りで
つつまれるころ
神様わたしの光

そう想った


新幹線の高架
ビルの窓に反射する
美しい空と輝き
やがて

茜色の空が
とじる



アバラキティシュバラ
時間も空間もなく
何者にも
左右されることはない

苦もなく
楽もなく
じぶんが
じぶんである
という
意識もない

なぜ存在しているか
存在しているという
その意識もなく

狭さも広さもない
静かだということも
騒がしいということ
もなく

ただ光の中にある

ボディーサトバ
暖かく穏やかな日には
あなたを思い出します
あなたは春風に波立つ
草原のように
美しい



ガディーガディー
羯諦 羯諦
ゆけるとき ゆけるとき
パーラガディー


波羅羯諦

光の世界へゆけるとき

パーラサンガディー
波羅僧羯諦
光を得られゆけるとき


ボディスバーハ


菩提薩婆訶

悟りを得られ高次元の存在へ




アバラキティシュバラ
永遠の光
時間も空間もなく
汚れもなく
汚れが無いもない
なにも無い
それさえも無い
存在そのものが
はじめのはじめから
無い
存在しているという
意識もない
体はもともと無く
目も鼻も耳ももともと
無い
静かであるということも
騒がしいということもなく
ただ光につつまれている






これまで
ここに書いてきた内容
それを進めるうえで
たったひとつの
自分がすべき事業

それは
自分がやりたいと願った事
なのか、それとも
行う事業そのものなのか

願った方は
自分の夢
行う事業そのものは
他人が求めているもの
でなければならない

あきらかに
夢ではなんともならない
事業の主人・雇い主は
他人だ

どんなに頭の中で
こんなふうにとか
これなら求められるとか
そんな夢物語を描いても
現実は何も動かない
夢と同じで空想の世界を
彷徨っているだけ

その空想の世界から
現実の世界へ最初に
錨を下ろさなければ
ずっと夢を彷徨っている

そんな時間に流されて
もはや錨のとどかない
深い大海原に来てしまった。

海の底には大きな鮫がいる
に違いない
もしかしたらもっと大きな
怪物がいるかもしれない
日増しに恐怖がたかなる

海の底は暗くて
何も見えない
怖い、怖くて逃げたい

自分は今
いったい何に乗ってるんだ
泥舟なのか
それとも筏なのか

何に乗って漕ぎ出したんだ
「夢」
ゆめにのって漕ぎ出したんだ

じゃあ
乗ってるのは夢なんだよね
夢が覚めたら
「どうなの?」

夢が覚めたら
以前と同じ世界だよ
彷徨わず
ちゃんとその先が見える
世界だよ








楽しいと
楽しくないとがある
それと
楽しいと辛いもある

楽しいと楽しくない
よりも
楽しいと辛いとは
ずいぶん
離れている

ずっと離れている
辛いのは
かなりつらい

楽しいと辛いが近いと
辛いは
たぶんたのしくないだけで
さほど辛く無い

そして
楽しいもさほど
楽しくも無い

じゃあ
楽しいと楽しくないは
楽しいが
楽しくないと近いのか

それとも
楽しいが曖昧なのか

そもそも楽しいとは
何か

楽しいは
人に依存する

つまり人それぞれだ
わたしにとってで
あって

あなたにとって
ではなく
わたしにとって

つまり
それ
楽しいは
わたし次第だと
いうことになる

他人(ひと)からみて
つまらなそうと見えても
それは想でしかない

その
見えないものをもってして
あの人はつまらない
みえてないのかもしれない
本当の想が見えてない

それとも
単に
経験が浅い
だけなのかも
しれない








花を咲かせたい
ずっと
咲かない花を

水もあげたし
肥料もあげたし
でも、それでも
花が咲かない

まだ
迷ってる
こんなにたくさんの
月日を重ねたのに
だけど

咲かせてる人は
たくさんいるよね
もう
それを
羨ましい

なんて思わないな
思えないな
そんな
遠くへ来てしまたから

花が咲いても
咲かなくても
何も
知ることすら
できない

そんな遠くへ
来てしまったよね
そこで
やっと
やっと気づいた

わたしは
その花のなかにいたんだよね
大きな
遥かにおおきな
花の中にいたんだよね

PAMにおける、ひとつの視点として

人生のターニングポイント

があると思う


あの時のあの状況や

行った行動

悲しみや喜び感情

必ずしも良いものではないが

ひとりの人間としての

総体


そのひとを

その人たらしめている

ポイントがある

幾つもそれはあって


ひとつで

それが

その人たらしめている

わけではない


そして

それは

必ずしも

思い出したくもない


わすれたくない

でもない


但し

可能性だけを

折っているのは

悲しい


人生は

ほんとうに

一度だけ

永遠の世界の


ほんの

そのなかで

希望を

PAMは

灯せるのだろうか


わたしはこの

人生で

心から喜んだ

記憶がない


と気づいた

わずかな

こと


ささいなこと

それを喜ぶ


そこから

はじめよう


楽しいと嬉しい




むねのうちに

生命というかたち

そのかたちが

なくならない

という

そのじぶんという個が


永遠であってほしい


ずっと生きたい

のか


その「永遠」のときを

考えたとき

の答えは「耐えられない」

だった



その自分でずっと

永遠にずっと

生きつづけたい

という問いの

その永遠は


それは永遠に生きていたい

ではなくて


あの日のあの時

つまりあの子や

あの人や

自分にも


もっとやってあげられたり

もつとやれたことだったり

もっと楽しくだったり


そんな特別でもない

事がらをもっと

やれてたら


という今の

今になって

のそんな

想いの

立ち上がりがあるからなんだ。


あそこへあの時のあの状況で

そこでもっとやってあげられたこと

それが

現在のじぶんに


だだをこね

波のように

わきたってくる


からなんだ


それは


人生をやり直したい

わけでもなく

長生きがしたいわけ

でもなく


やり残し

ただそれだけ


そう

やっとそれに気づいた

だけ


あの時なら

できたのに

という

後悔


「あんなに時間があったのに」


それが

正体