『私たちは日常で「意識が現実を創りだす」出来事をいつも体験している』
私たちは、光を見て、物に触れることで、この世界が目の前に“在る”と確信している。
私たちは世界を見ているとき、あたかも眼前に人や車や様々な物体をあたりまえに、自然にそのものが存在しているとみている
だが、少し冷静に考えてみてほしい。見えているものは、そのままそこにあるのか、と
その「見えているもの」がある場所、それは本当にそこに在るのか?と
物体は「目を閉じても触れることができるし、更に匂いもある。食べものだったら味もある。
だから、それが目の前にあるのは間違いない。」
しかし本当はどうなのか
見えている世界も、触った感覚も、味も、匂いも、すべては自分の脳が頭の中に再現して創り出したものだ。
これは嘘⁈では無い
落ち着いて、よく考えてみてほしい。
私たちが日常的に見ている物や触れている物は、そのままが見えたり、外界に在る”ものではない。
それは、光や触覚から得た情報をもとに、脳が脳内に仮想空間をつくり、そこに再現された世界を見ているのだ。
よく在る坂道を登るボールや同じ色の線が背景の色に左右される錯視などは、私たちが外界をそのままに見てはいない証拠です。
それは「脳」が目や鼻や舌で捉えた外部情報を脳内で「もう一度」創りあげているからです。
私たちはその外界にそのまま立っているのでは無い、脳がつくり出した世界の中に、私たちの意識、感覚が立っている。というのが現実の姿
私たちが見ている(と思っている)世界をこれほど精巧に脳は瞬時に脳内に構築している。考えてみれば、驚くべきことだ。
ところがそんな脳は、毎回すべてをいちからつくり出してはいない。以前と同じ場所では、以前の記憶を再利用し、見えにくい部分は補完し、暗がりでは大胆に省略する。
夜の暗闇で「何か」を見間違えるのは、その“省略”の結果の良い例です。
ここからこの世界の本質が見えてくる。つまり「私」という意識が誕生して、この見えているこの世界に「私」という波動のエネルギーが在り
「そこに私が見ていると思っていた仮想の世界が生成されている。」のではないのかと言う、気づき
つまり、私以外のひとりひとりの意識(波動エネルギー)も、それぞれにそのひとの世界を生み出している。
そこでは、その意識ごとの無数の仮想の世界が同期することで、私たちはひとつの世界、ひとつの宇宙を共有しているのではないか、と言う気づき
この同期が保たれている限り、私たちは現実に疑いを持たず普通に生活してゆくことができる。
では、この精巧な仕組みを創り出したのは『どの様な創造主』なのだろうか、
そう、それが量子の波動エネルギーである『意識』なのだな、という気づき
ここで創造主に関して『波動エネルギー』がその創造主で在ると言う気づきのもとをゴーダマシッダルータ・釈尊の悟りから観てゆきます。
ゴーダマシッダルータ・仏陀は
人間の感覚を
眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚を五蘊として示し、更にそれを「五蘊皆空」と説いた
そして釈尊が語ったのは「色即是無」ではなく「色即是空」
その言葉が示しているのは、物質(色)は、無ではなく、『空』
つまり物質(色・そらの星も私たちの身体も)は物質ではないもの(空・見えないし触れない物質)
それは、現代物理学が示す量子の波動エネルギーの存在と重なる、それは、世界の実相を語られているもの
空間──今でいう「場」──は、
何もない場所ではない。
宇宙のどこにも完全な“何も無い”場は存在しない。
私たちが生命としての自分だと思っているものの本質は、量子の波動エネルギーだ
それは、もともと生と死をもつ生命ではなく波で広がるエネルギー
物質として、形は変わって(見えて)も、本当の存在は変わらない、つまり失われない。
意識は振動するエネルギーであり、時間も空間も無い、最初の最初から在り、消えることはない。
私たちは、意識によって世界を構築し、意識によって世界をここに選択している。
だからこそ、私たちは、望む世界への境界を選択によって超えていくことができる。
そう、
それはあまりに、自然なことだと言えるのです。












