2015年8月30日 主日礼拝説教「主イエスの献げもの」須賀 工牧師 | 石山教会の公式ブログへようこそ!

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2015年8月30日 主日礼拝説教
主題:「主イエスの献げもの」須賀 工牧師
聖書:マタイによる福音書17章24節~27節

ペトロのもとに神殿税を集める人々が訪れました。神殿税とは、ユダヤ人の成人男性が一年に一度、神殿の修復等のために納めるものです。つまり、神殿税を納めるということは、その人がイスラエルの一員、更に言えば神の民の一員であることを意味していました。また、この神殿税は、「命の代償」とも言われ、神殿税を捧げることによって、その命が祝福されると信じられていたとも言われています。
 主イエスの時代、ローマの支配のもとに置かれていたユダヤ人にとって、神殿税を納めるか否かは、とても深刻な問題でもありました。その意味で、ペトロに向けて投げかけられた問いは、非常に重大な意味を持っています。
「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」という質問は、明らかに、主イエスという存在を疑っていることを前提としているでしょう。即ち、律法学者やファリサイ派に対する反抗的な言葉や態度を見て、主イエスはイスラエルの一員とは言えないのではないか、という疑いの中で、この質問が投げられているのです。
 この問いかけに対して、ペトロは、「納めます」と答えました。なぜなら、彼は、できるだけユダヤ人の反感を買うことなく、いざこざを避けたいと思ったからです。このペトロの感情は、直前に告白された、主イエスの受難予告と深く関わっているのかもしれません。その意味で、ペトロは、何とかして、主イエスをこの地上につなぎ止めておきたいと感じたのかもしれません。
 しかし、自分の思いが優先されたところで、主イエスの存在の本質を見失っているとも言えるでしょう。
 主イエスは、ペトロの思いを読み取りつつ、王の子どもたちが免税であることを示し、神のために納められる税金を、神の子どもは納めなくても良いと教えられます。つまり、主イエスは、ここで御自身が神の御子であることを示し、同時に、主イエス御自身が自由な存在であることを表されたのです。
 また、主イエスは、キリストに繋がる人々も、自由であり、彼らもまた、神に属する者である以上、神殿税を支払う義務はないと言われました。
 しかし、同時に、主イエスは人々を躓かせないためにも税金を納める道を示されました。自由とは、自分勝手に生きることではなく、常に隣人を生かすために与えられた道なのです。
 神殿税を支払うか、否かがその人の信仰や救いを決めるのではありません。救いは、命の代償は、主イエス・キリストの十字架の死と復活にのみあります。この恵に強く結ばれて生きたとき、私達は、あらゆる信仰的慣習や習わしを行う自由もあれば、行わない自由も与えられているのです。同じ自由が与えられているならば、隣人を生かす道を選び取りたいものです。