世界を支配する「回帰」

 

 

 

仮説1 

 

世界とは、構造と解釈の再帰的循環、換言すれば、

 

法や制度など諸々の「システム」と

 

それに対する我々の解釈が相互に影響し合うことにより生成され続ける動的モデルなのではないか

 

 

システムがそれに対する我々の解釈を作らせ、

 

我々の解釈が、新たなシステムを作る

 

この果てなき動的な循環が世界を「作り続ける」

 

 

 

 

仮説2

 

制度の目的と実態が実質的に乖離していることを誤謬と定義する

 

目的と実態の乖離によって、制度の本来の目的に立ち返ろうとし

 

制度が確立された当初に戻る動きを回帰と定義する

 

 

この回帰こそが、世界を生成し続ける原動力なのではないか

 

100%正しい人間がいないのは明白

 

では、その人間が作るシステムも100%正しいものにはなり得ない

 

そのシステム(構造)に対する解釈も必然的に誤り得る

 

その誤謬は蓄積していく

 

phase1で誤謬が生じると、その影響を受けて続くphase2にも誤謬は蓄積されていく

 

制度の本来の目的と実態が乖離していくことによって

 

他制度との不整合が生じたり、制度の影響下にある人々が不利益を被り

 

不満が蓄積されていく

 

そしてその波は波及してく

 

誤謬が蓄積してある段階、つまり制度の正当性の喪失や完全な不整合に到達すると

 

制度の本来的な目的を希求する動き「回帰」が生じるのではないか

 

この動きとは復古主義的な動きとは異なる

 

復古主義は過去へ回帰することを目的とする

 

しかし、回帰主義的動きは、過去、即ち、ある制度が最もその本来的な目的に忠実であり

 

本来的な性質を有する時への動きである

 

いわば、制度の本来性、目的に最も整合的であることを希求する動きである

 

回帰とは「原点的なもの」へと戻る動きである

 

原点ではなく、原点的なとしたのは

 

「原点」という言葉が、どこか固定的で単一的なイメージを予見させるからである

 

原点的なものを内包する世界が生成され続けるのなら、原点的なものもその都度変化しうる

 

「万物は流転する」という言葉は非常に的を得ている

 

「原点的なもの」とは、今の段階で私は

 

「あるものをあるものたらしめる最小限の構造かつ、必然的な暗黙の解釈」

 

であると想定しているが、より一層の精密化と検討を要すると思う

 

歴史的実例としてルネサンス、宗教改革、そして、キリストの死すら語ることができるのではないか

 

ルネサンスとは、中世の神中心構造と我々人間の解釈の誤差蓄積から

 

古典的な人間観への回帰によって生じた現象

 

宗教改革とは、教会制度の誤謬蓄積から、信仰の原点的なもの(聖書など)への回帰によって生じた現象

 

キリストの死とは、律法構造(旧約)の誤差蓄積から、愛という原点的なものへの回帰によって生じた現象

 

 

 

 

結論

 

世界 = 構造 × 解釈 

 

で表せる

 

そして構造と解釈の再帰的な循環がエラーを生む

 

そのエラーが次の再帰的循環を生じさせ、世界を動かし続ける

 

 

 

 

私はこの思想を

 

回帰主義

 

と命名する



[1枚目]千葉県銚子市 地球の丸く見える丘展望館 より


奥に見えるのは屏風ヶ浦だと思います


陸と海の境界線がはっきり見え、両者の色の対比が美しかったです






[2枚目]先ほどと同じ場所から


写真では伝わりにくですが、確かに地球丸いなーと実感できました


地球平面説の信奉者を連れてきて共同生活させてみたいですね







[3枚目] 銚子市 犬吠埼灯台内部


木目調のデザインが美しかったです


流石に内部は狭く、人とすれ違う際は気を使ったのを記憶しています


こんなに長い螺旋階段は人生で初めてでした


しかし、登るのに時間を要するにつれ、頂上の景色はどんなものだろうかとワクワクしました


この気持ちは海でも山でも同じなんですね







[4枚目]犬吠埼灯台からのぞむ君ヶ浜


名前からしてオシャレだと思います、君ヶ浜


古文はあまり詳しくないから正しいのかはわかりませんが


多分「君の浜」とか「君にまつわる浜」という意味です


昔、男が必死に走り回って美しいこの浜辺を見つけて、恋人に誇らしげに見せたのでしょうか


なぜこんなロマンチックなことを考えていたのか今でもわかりません


隣には一緒に登った父親と大勢の観光客しかいなかったのに...


浜辺の曲線の美しさと、砂浜に押し寄せる白波がマリンブルーの水面によく映えて風情を醸し出していました


夕暮れ時に来ればまた違った風情が楽しめそうです


もしくは、隣に彼女でもいればね...




総じて銚子は良い場所でした


相模湾、駿河湾沿いの海辺しか見てこなかった自分にとっては


太平洋というのは格別珍しく、風情のあるものに感じられました


千葉駅から電車で100分ほどは要しますが


立地を考慮しても、多くの方にお勧めできます



銚子市は過去の大型事業や少子高齢化などに伴い深刻な財政危機に直面し


「緊急財政対策」に取り組んでいるそう


円安で海外への足が遠のきがちな今こそ


銚子市のような誇れる資源があるものの、危機に直面している都市に訪れることで


非日常や美しい体験ができるのではないでしょうか


また訪れた際は屏風ヶ浦の辺りを散策してみたいと思っています









[5枚目] 旭市 飯岡海水浴場


銚子から両親の車で南下し旭市へ


銚子にいた頃は曇りがちだったのですが


この時から雲が散っていき、空の青さが足元の砂浜に反射して


まるで押し寄せる波と同化したようで幻想的でした


銚子の浜辺よりも人は少なくリラックスできました


自分を見つめ直したい時にお勧めです



以上、千葉県観光編でした!

核心命題


「「「近年の恋愛離れの要因は、男女間の差異の縮小にある」」」



前提仮説


「男女両性はそれぞれ、自身と差異のある者に惹かれるのではないか」



男女それぞれの身長と髪の長さに着目し、彼らの恋愛率との相関関係を分析した研究を参照する


恋愛率とはデート数や、婚約数などを指標化したものである


まず男性の身長と恋愛率に関して


ポーランド人男性の身長と結婚率を分析した調査では


高身長男性(180cm以上)は低身長男性(170cm未満)より結婚率が高いという結果になった


米国人女性の配偶者選択に関する調査では女性は、平均より身長の高い男性を好むことが示されている


欧米人の身長と結婚率に関する調査では、高身長男性は、低身長男性より結婚率が10~20%ほど高いことが示されている


フランス人の身長と配偶者獲得に関する調査では、高身長男性ほど配偶者獲得が容易


デート数、交際数が多いことが示されている


日本でも高身長男性(175cm以上)は、低身長男性(165cm未満)より結婚率が高いことが示されている


別の研究では、日本における高身長男性は低身長男性より結婚率が10%ほど高いことが示されている



続いて女性の髪の長さと男性からの評価に関して


米国、英国、スロバキア、多国間研究、そして日本における全ての調査結果が示したことは


ロングヘアの女性は、ショートヘアの女性より魅力的と判断したという事実である


そして、ロングヘアの女性はショートヘアの女性よりデート数が多いという結果が出た



逆も然りで


米国、英国、多国間研究においてショートヘアの男性はロングヘアの男性より魅力的と評価されていて


デート率もショートヘアの男性の方が高い



ポーランドの女性に関しては、低身長女性(160cm未満)は高身長女性(170cm以上)より結婚率が高かった


米国において男性は、平均身長より低い女性を好みやすかった


欧米を対象とした調査では、低身長女性は高身長女性より結婚率が高かった


フランスにおいても同様だった


日本においても低身長女性(155cm未満)は高身長女性(165cm以上)より結婚率が高かった


別の研究でも、低身長女性は、高身長女性より10%ほど結婚率が高いことがわかっている



まとめると、高身長男性と、ロングヘアの女性は恋愛率が高く


低身長男性とショートヘアの女性は恋愛率が低い傾向があった


また、ショートへア男性と、低身長女性は恋愛率が高く


ロングヘア男性と高身長女性は恋愛率が低い傾向が見られた


いずれにせよ、男性も女性も、自分にはない特徴、即ち


両性は、差異のある者に惹かれる傾向があると言えるだろう





仮説1


「女性の社会進出が男女間の差異を縮小させたのではないか」


事実として、女性の労働力率、管理職、専門職への進出率、経済的自立率は1950年から現在までで大幅に向上している


また、共働き世帯は1950年では30%前後であったのに対し、2024年では70%前後と約2倍増加していることから


女性の社会進出率が向上していることは明白である


また、戦前の日本において、男性=外働き、女性=家事や育児という役割分担がなされていたこと


受けていた教育の内容も異なること(体育、家庭科)


労働は男性中心で、女性は結婚時に退職していたこと


経済力は男性中心で、女性は被庇護者的役割が強かったこと


これらは全て事実である



また


現在は男性も女性も共に働くいわば共働き状態が拡大していること


男女は共学であり、少なくとも同一のカリキュラムであること


女性の寿退社が減少していること


女性が経済的に自立できる割合が向上したこと


恋愛結婚で、男女間の距離が近くなったこと


これらも全て事実である


これが何を示唆するのかというと


戦前に比べて現在では、男性と女性との間にある差異が縮小しているということである


女性の社会進出に伴い、女性は男性に庇護される立場から


男性が占めていた地位をめぐって男性と争うライバルになった


これは男女が一つの土俵に立つという意味で、差異が縮小していることを表す


また男女が共学となり、共働することで、男女間の距離が近くなった


これはまた差異の縮小である


女性の社会進出が男女間の差異を縮小させたということは妥当であると考えられる




仮説2 


「インターネットの普及が男女間の差異を縮小させたのではないか」


インターネットの普及率は1990年に0%だったのに対して、2024年では90%である


インターネットが大幅に普及したのは明白である


インターネット特に、SNSやマッチングアプリ、AVの普及によって


男女はそれぞれの外的、内的情報に容易にアクセスできるようになった


AVの市場規模は1980年に1000億円だったものが、2024年では5000億円と5倍に拡大している


インターネットの普及によって異性が可視化され、内情が明らかになることで異性の希少性が低下した


即ち、男女間の差異が縮小したと言える





考察


希少性が低下したものが価値を失うのは明白である


先述したように異性は自分にないものを求める


これを学術的には補完性と呼ぶ


男女間の差異がなくなったことで、異性について知りたいという欲求が起こりづらくなった


これによって恋愛というものの魅力は相対的に低下してしまった


これが現在の恋愛離れを引き起こしているのではないか



もちろん恋愛離れの要因は、男女間の差異の縮小だけではないだろう


例えば、経済的問題や、リスク社会化など、要因は様々であり


恋愛離れという問題は複合的要因によって構成されているのだと思う


しかし、そういった複合的問題の中でも


男女間の差異の縮小というのは我々の根源的欲求に直接アプローチしてくる問題のため


決して無視できないどころか、最も根底的な要因であるといっても過言ではないように思える



この記事の仮説に関して、差異の縮小の要因の一つに、「女性の社会進出」


というものを列挙させていただいたが、私自身が女性の社会進出に反対しているというわけではないことはここに明言する


事実として、女性の社会進出こそが恋愛を活性化させたという研究を行なっている学者もいるくらいである



私の見解として、今後の恋愛のトレンドは、過去に回帰し


男性性、女性性の追求 になるのではないかと思う


これに関しては


『新理論 回帰主義〜世界を支配する法則〜』世界を支配する「回帰」仮説1 世界とは、構造と解釈の再帰的循環、換言すれば、法や制度など諸々の「システム」とそれに対する我々の解釈が相互に影響し合うことにより…リンクameblo.jp


こちらの記事に通じるところがあるが、いかんせん非常に難解であるため


AI等の要約機能を使われることを推奨する



また、ルッキズムの浸透により、自らの顔や体型に手を加えることが容易となっている風潮がある


これによって、メスや注射針で変えやすい顔や体型ではなく


生まれ持った特性である身長や、声に魅力を求める層が今後現れるのではないかと考えている


声に関しては、近年のVtuberの台頭がよく表している


もちろんこの現象に関してもコロナ禍のステイホーム時期における需要等、複合的要因で説明されるべきものなのだろうが


戦争と平和


戦争の対義語とは何だ?


平和の対義語とは何だ?


と聞かれた時に我々はどう答えるか


おそらく多くの人は戦争の対義語とは平和で


平和の対義語が戦争だと答えるだろう


では戦争とは何か


平和とは何かと


思考を一段階上げてみる


そうすると戦争とはどういう状態か説明できても


平和とはどういうことなのか説明できないことに気づく


なぜなら戦争とは、多くの国の憲法や国際法において


ある程度共通した、普遍的な認識、規範が成立し、それが定着しているからである


しかしながら、平和とは何かを定める普遍的法的規範は少なくとも私の知る限りでは存在しない


となると


戦争とは具体的な事象であって


平和とは抽象的な理念であるということがわかる


抽象的であるということは、認識するもの、その言葉(平和)について語る者たちによって


若干ではあろうが、絶妙なニュアンスや解釈の差が生じる


誰かにとっての平和は


誰かにとっての戦争状態かもしれない


ある国家にとっての平和は


ある国家にとっての戦争状態かもしれない


普遍的な平和をあらゆる国家、あらゆる民族、あらゆる共同体


また、あらゆる個人で両立するというのは可能なのか


平和とは、誰かの犠牲によって成り立つものではないのか



そのため平和を目指そうというよりも、


戦争のない世界を!というスローガンの方が


より一層の効力を有するのではないか


そして、各々の掲げる平和とやらにより近づくことができるのではないか




憲法9条に関して


①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、これを永久に放棄する。


②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。



ざっと読む限り、憲法9条の究極目的は


「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することにある


目的が決まれば、その目的を達成するための手段が選択されるという意味において


手段は目的に従属するわけである


従って


1. 9条の究極目的は国際平和である。


2. 戦争放棄や武力行使禁止は、その目的を達するための手段の一つである。


3.手段は目的に従属する。


4. 或る状況においては、武力行使の方が国際平和を維持、回復できることもある。


5. 従って、その武力の行使は9条の究極目的である国際平和に適合する。


6. よって、禁止規定にもかかわらず、武力行使は容認される。



このような推論は論理的には成立する


しかし、9条2項において


「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない------」


となっているため


正義と秩序を基調とする国際平和は確かに究極目的だが


例外的に陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない-----


という強い禁止文言、例外条件を定めている


となれば、「前項の目的を達するため、陸海空軍の-----」


という文言は手段の制約ではなく


ある種、憲法9条の影の目的、第二の目的とも解釈できるのではないか


これには、連合国の最高機関「極東委員会」の緻密な意図が介在していると言わざるを得ない





芦田ロジック


憲法草案作成当時、芦田均(当時の衆議院憲法改正特別委員会委員長)が


「前項の目的(侵略戦争の放棄)を達するため」に戦力を持たないのだから


侵略目的ではない戦力(自衛のための戦力(自衛力とでも言った方が適切かもしれないが))なら持ってもいいはずだ」


というロジックで


将来日本が自衛権を持てるように意図的に「前項の目的を達するため」という文言を挿入したのだそう


しかしながらその後の日本の通説的解釈や政府解釈では


芦田の「抜け道ロジック」を防ぐ方向へと進んでいってしまった


「国際平和の希求をするためには、如何なる名目であれ戦力を持たないことこそが唯一の道だ」と


つまり、芦田が自衛権を持つために入れた文言が、のちの政府解釈によって


むしろ集団的自衛権を持ちにくくするという結果を招いてしまったことになる


文章の作成者の意図を顧みず、ある種、横暴な解釈を展開した芦田後の政府解釈は


憲法史における汚点と言っても過言ではないのではないか


つまり、憲法9条作成者の意図としては


「集団的自衛権は持てる」ということになる


しかし、芦田後の解釈によって集団的自衛権は容認され得ないという形に変更となってしまった


しかし、安倍政権が政府解釈を変更して-----今に繋がっているというわけである



ここで重要なのは、日本の再軍備化を警戒した極東委員会、特にアメリカが


1950年の朝鮮戦争勃発時に


「芦田のロジックを使って再軍備しろ!」と要求してきたことである


無論これは、日本への共産主義の伝播を防ぐための要求である


この時に、GHQの超法的な権限(ポツダム命令)を用いて憲法9条は撤廃したり改正することができた


(連合国の意向が反映されてできた9条が連合国の意向で撤廃されるというのは皮肉な話だが)


しかしながら、この時に9条を改廃していれば、今日


彼の惨禍から81年という年月が経ちつつある現在に至るまで


憲法9条問題が議論されることはなかったのである




憲法9条改正を拒んだその人物は


当時の首相


吉田茂 である


導入


現在放送中のアニメ「きみが死ぬまで恋をしたい」


に関して、とても感銘を受けたので語っていく


どういう話なのかは↓



生きたいも、好きも、全部君が教えてくれた。


身寄りのない子供を戦争用の兵器として育てる学校に通う少女たち。


人を殺すための授業、誰が死んでも悲しむことさえままならない日常。


自分の境遇を受け入れられずにいる14才のシーナはある夜、血まみれの小さな女の子・ミミと出会った。


平穏を願う怖がりなシーナと笑顔で戦争に向かう不死のミミ。


死と隣り合う世界で2人の少女が見つけた、あどけない願いの物語。


※公式サイトより





永遠の命


ミミは、母親の犠牲(禁忌とされている蘇生魔法)によって永遠の命を得たとされている


母親は自分の犠牲によって、娘が救済されたという事実とともに死に至るため


少なくとも母親の中で娘は永遠に生き続けるのである


なぜなら死者にとって生者の余生や今後の顛末を考慮する必要はないのだし、知り得ないのだから






救済としての愛と牢獄としての愛


母親のこの行為は、母親自身にとっては娘への救済であり、最大の餞だったかもしれない


しかし、この禁忌を施された当の娘(ミミ)にとっては呪いであり、終わりなき苦しみである


ミミは、死なないという不変性のために、有限である他者と分かり合えることがあろうとも


その関係性はやがて破綻を迎える


有限性のある者にとって、その一瞬は、限りあるからこそ、そこに意味を見出すという解釈が可能であるが


無限性を持つ者にとってはその解釈はできない


そしてミミは学校側によって、戦う時にのみ戦場で解放され、学校に帰ってくると地下に閉じ込められていたという


この背景情報は


主体性を欠いた者は「生きている」のではなく「生かされている」


ということのメタファーとして機能しているのではないか






手段としての愛と目的としての愛


彼女たち、身寄りのない子供達を救って教育を受けさせるところまでは学校の存在は彼女らにとって救済であるかもしれない


しかし、学校側の目的とは、戦争に動員する用の兵士として彼女らを育成することである


学校側が掲げる生徒の育成とは、戦争動員用の手段に過ぎず


こう見ると学校側は身寄りのない、ある種、純粋な子供達を戦争用の兵器に変貌させるという意味で悪であるかもしれない


そのような目的を持つ学校側に救済された子供達(生徒たち)ははたして戦争に動員される義務を負うのか


作中では、セイランというキャラがいるが彼女は


「学校は身寄りのない私を救ってくれた。だから戦うことで学校側に恩返しをしたい。」


と述べている


セイランは身寄りのない子供を救った学校を恩、すなわち善き目的としてとらえ


その目的に報いるために、学校側の目的である戦争の遂行を行おうという考えである


しかし、学校にとって身寄りのない子供を集め教育を受けさせることは目的ではなく手段である


学校側の手段を、善的な目的としてとらえ、戦争を遂行することになるセイランは


はたして如何なる結末を迎えるのか、今後の作中の展開に期待できる





真なる敵


ここである問いが生じる


彼女たち純粋な子供たち、換言すれば戦争を憎む者たちによって真なる敵とは


戦場における敵(enemy)なのか


はたまた、戦争を始め、彼女たちに戦争を意識させる国家や、彼女たちを戦争に動員する学校側


すなわち、構造(system)なのか


enemyではなくsystemを憎み、より良きsystemの構築に努めることが


争いをなくす唯一の手段かもしれない






救済的犠牲


ミミは不死身であるから、如何なる損害を受けようとも必ずシーナのもとに戻ってこれる


しかし、ミミは不死身であろうとも痛みは感じる


それなのに、ミミはあえて痛みを伴うやり方で大勢の敵を倒す


ミミはおそらく自らの不死身という特性がいかに強力で、他の犠牲を減らす救済となるかを理解している


しかし、シーナ(戦場経験なし)はミミに対して


「怪我をしないで帰ってきて」 と告げる


シーナにとっては他者が犠牲になろうとも、ミミに苦痛を感じてほしくないという思いがあるのであろう


そしてミミは「怪我をしないで帰ってくる」ということをシーナと約束して戦場に向かう


それでもミミは戦場で約束を破り、傷つきながらも大勢の敵を倒す


これはシーナの個人的正義と、ミミの他者のためという公共的正義の対立を表している


少なくともこの状況下において、普遍的正義は存在し得ないのである






題意


「きみが死ぬまで恋をしたい」という題意はこの言葉が誰の言葉なのかによって意味を大きく変える


(i) ミミの言葉である場合


ミミは死なないが、シーナは死ぬ


シーナが死ぬまでの間ずっと恋をしていたいという、シーナの人生のすべての時間にミミが組み込んでいたいという宣言である



(ii) シーナの言葉である場合


ミミにとってこの言葉は唯一の救いとなるかもしれない


シーナはやがて死すべき存在であるが、それでも


永遠に死ぬことのないミミを永遠に愛し続けるという


ミミを苦しめる永遠性つまり不死性を丸ごと愛するという宣言である


ミミはシーナがやがて死ぬとき、その不死性を憎むことであろう


自分だけ取り残されてしまうと


しかし、シーナがその不死性を愛するということは


戦争用の兵器として生かされているミミではなく


一人の主体的な存在として生きている人間としてのミミを愛し続けるというミミの存在証明なのである


この言葉はおそらく、ミミが初めて一人の人間として認められた証左であろう






作品全体に共通する構造として


愛とは、目的を達成する手段(学校)にも


恩義(セイラン)にも


宣言(ミミ)


はたまた、一人の人間の存在証明(シーナ)にもなりうるのである



皮肉にも、学校側にも、生徒側にも、そして敵にも愛は共通して存在している


重要なのがその愛が、手段として用いられるのか、目的として用いられるのか


善として用いられるのか、悪として用いられるのか


愛を語る者それぞれによって愛の意味は変貌するのである













あとがき


〜アトレ秋葉原の様子〜


※記事執筆地点もコラボ継続中
















消費税減税が悪である理由


結論からお伝えすると、それは


低所得者層及び現役世代(労働者)ほど損を被り


格差の拡大(富める者とそうでない者、現役世代と高齢者層)をもたらすからである



はじめに、物価、即ち物の価格がいかにして決定づけられるか


その答えは概ね、需要と供給のバランス及び市場の通貨量である


需要と供給のバランスについては簡単にご理解いただけると思う


世界に一台の車を何千人もの人が買おうとすればその車の価値はどんどん上がる


次に市場の通貨量に関して 


これも実は簡単な話で


100円の商品が売られていたとして、何千人もが100円を持っている(通貨量が多い)時


※商品の生産量は一定


必然的に先程の車のような形になる


そうすると、100円のものの需要は増えるから


そのものの価値は上がる(人気だと考えればいい)


つまり物価が上がる


また、皆がお金を持っている(市場の通貨量が多い)場合、お金の価値は下がる


これも単純な話で、例えば札をカードゲームのカードにすり替えて考えてみればいい


世界で10枚しかないカードと、世界に何億枚とあるカード、どちらの方が価値が高いかと言われて後者を選ぶものはいない


通貨も同様、1万円札が100万枚しか流通していない世界と、1兆枚流通している世界とでは1万円札の価値が異なる


前者の世界の方が通貨の価値が高く、後者の世界の方が価値が低い


市場の通貨量が増えると、通貨の価値は下落する


例えばこの二つの世界で何か物を買おうと考えた時に


1万円札が100万枚しか流通していない世界ではリンゴを100円で買えるかもしれない


しかし1兆枚流通している世界ではどうだろうか


この世界ではリンゴを100円で買うことはできない(通貨の価値が低いから)



ここまでのまとめ


市場の通貨量が増えるとお金の価値が下がり、物価が上がる




消費税減税をするとどうなるか


その帰結は簡単で、政府に納める金額が減るのだから、社会(市場)に出回る通貨量が増える


そうすると先述の通り、お金の価値が下がり、物価が上がる


物価が上がって苦しい思いをするのは誰か


それは紛れもなく貧困層である


なぜなら消費税の対象となる食料品や日用品などなどは


所得に関係なく誰もが購入する物だから


富裕層は多少それらの金額が上がったところでたくさんお金を持っているから買えるだろうが


貧困層はどうだろう


消費税は、富裕層にも貧困層にも等しくのしかかる

  




ここまでのまとめ


消費税減税は物価の上昇を招き、その負担を最も被りやすいのは貧困層である





消費税について



消費税は実はその使途が明確に定められている


~消費税法1条2項より~


消費税の収入については、地方交付税法(昭和二十五年法律第二百十一号)に定めるところによるほか、毎年度、制度として確立された年金、医療及び介護の社会保障給付並びに少子化に対処するための施策に要する経費に充てるものとする。



要約すると、消費税は、年金、医療、介護、少子化対策に充てると明記されている



日本が少子高齢化であるのは自明であり、現役世代が負担する高齢者の数が今後増加していくのも明白


そこで年金、医療、介護、少子化対策に充てる税金(消費税)を減税するとどうなるか


先述の使途に使用する財源は必然的に減る、それらサービスを必要とする人(高齢者)の数は増える


そうなった時に、別の形でお金を集めるしかなくなる


その方法として社会保険料の増額が挙げれられる


社会保険料が増額されると現役世代の手取りが減り、高齢者に対して分配されるようになる


ここで現役世代は金を吸われ、高齢者に分配される構図が完成する


即ち、現役世代と高齢者の格差が拡大する




総括


消費税減税は市場の通貨量の増加を招き、通貨の価値が下落することにより物価の上昇を招く


そのダメージを最も負担するのは貧困層


また社会保障や少子化対策に充てられる金額が不足することで、社会保険料等の増額が成され


現役世代の手取りが減る


以上より、消費税減税は、貧困層に著しいダメージを与えた挙げ句、現役世代の負担を増やすことにつながる




しかしながら世間一般では、消費税減税を求めてデモをやったり、財務省解体?等を叫び散らかしてるらしい


個人的には政権批判はしないスタンスでやらせてもらってるが(そもそも選挙権がない)


あえて言わせていただくと、昨今支持率が低迷している高市政権は


直感的に多くの国民にとって善だと認識されている消費税減税を強行することで


支持率の回復を狙うだろう


そしてその負担は何年後かに若年層や現役世代が負担することになる


日本は民主主義国家を標榜としていて、それに即した国家であるということについては同感できる


しかし、古代ギリシアの民主政治等をみていても


民主主義とは公衆(理性的判断能力を有する者)が行う者であって


現今の主権者、即ち大衆(煽動されやすい)がやるのには不適切だと思わずにはいられない


SNSやAIが影響力を強め、世界各国で極端な思想を持つ政党が台頭し、何かとセンセーショナルになりやすいこの時分


一度原点に回帰し、冷静になって一人一人が理性的に、政治や経済について考えてみても良いかもしれない



※なぜ回帰するべきなのかは下記記事参照






















あとがき


ご覧いただきありがとうございました


ぼっち高校生です


今回は消費税減税が悪である理由について考えてみました


できるだけ政治的に中立的に書いてみたつもりです ※ここまでは


皇室典範の改正が大きく取り上げられていましたが


個人的には、国民の声が反映されていたとは正直そこまで言えないと考えています


憲法9条改正などでも話題になりましたが


こういう時こそ国民投票だろ!と考えていましたが


あれって憲法改正時のみなんですね


もう少し国民の声を集約した会議のような物が設けられればいいのにと思いました


いやすでにあるはずなんですけどね(国会)


なんで国民の声が反映されてないって思うんだろ...


この辺にしておきます


ではどういった政策を政府は打ち出すべきなのかとか、政治思想的なことに関しては


余暇があれば書きたいと思います



ここまでご覧いただきありがとうございました!

過去と未来の狭間に


未来あっての今ではないということに薄々気づきつつも、 やはり未来のために生きようとするのが学生ではないか 

ヤングカルチャーやカウンターカルチャーなど、大人という自らの未来像に反抗することで自らの存在意義を見出す

それが学生や若者である

マージナルマン(境界人)とはドイツ出身の心理学者レヴィンが言った言葉だが

つまりそれは、子供でも大人でもないその境界部分に位置する人だという意味

子供=過去、大人=未来 だとすれば過去と未来の狭間に位置するのが学生

しかし時は未来へ向かって進んでいくのだから、狭間に置かれた人間は必然的に未来を志向することになる 

今を生きようとしない人生は退屈だとはよく言われる話だが

半ば強制的に今ではなく、未来のために生きろと言われる学生の人生は退屈であろうか

社会はこの問いにNOと答える

その解答理由は「青春」 この2文字に凝縮されている

思うに、青春という言葉や概念は、当の学生らから生じたのではなく、過去を振り返った大人たちによって生成されたラベル

足枷なのではないか

若者は「青春」という幻想に囚われ過ぎている 

両親は子供の頃の遊びや人間関係などは今振り返ればちっぽけなものだったという

これは正しいと思う 

そもそも、「今」は誰にだって存在するし、それは瞬間的で不可逆的なものだ

つまり、誰しも「今しかできないこと」を抱えて生きている

それなのに、学生特に、未成年に、「今しかできないこと」をしろなんて、大人たちがその言葉を述べるのは許されているのか

自分も、彼ら学生たちと同様に、「今しかできないこと」を抱えておきながら

それを諦め、学生たちに「今」を転化し、定められた過去を振り返り、美化する



奇跡という予定調和の世界


少なくとも小中高 まで 1クラス40人? という上限のあるコミュニティに縛られ生活をしていくわけだ

当然、出会いの数にも限界があり、人間関係の質にも限界がある

教師はよく言う

「このクラスメイトで、このクラスでいられることは奇跡だ」と

果たしてそうか?

少なくとも小中までは義務教育で、これに通わない人間はいない 

どの地域、どの学校に行こうとも、必ず誰かしらと知り合い、生活を共にすることになる

つまり、教師のいう「奇跡」は憲法と、諸制度によって確立された予定調和の世界だ 

そこに奇跡や青春などというロマンチシズムは持ち込まれるべきではない

そのロマンチシズムはあまりに過去を美化し過ぎている



坂道アイドルが巨大産業として成立する理由


坂道アイドルとは、⚪︎期生という年齢の近い数10人の少女たちで構成された閉鎖空間である

選別された結果、そこに立っている彼女らは、偶然同じオーディションを受け、偶然合格しただけの関係なのに

レッスンや合宿などを通じて、「絆」や「奇跡の出会い」というラベルを貼られていく

お気づきだろうか?

この構造は先述した、教師のいう「奇跡」の構造と酷似している

なんなら、その偶像化と言っても過言ではない

彼女たちは一般人(芸能人以外は一般人という選別方法も好きではないが)

だった過去から、「今」を体現するアイドルになり、そして、卒業を迎え大人(未来)になっていく

この構造は学生と同じものを予見させる

なぜ、アイドルは産業として成立するか?

それは、「今」という瞬間的で不可逆的な猶予を自らも抱えているのにも関わらず

それを生きることに疲れ、諦めたファンの存在が大きい

彼ら、その多くは大人だろうが、自分がとっくに失ってしまった、あるいは学生時代に手に入らなかった

彼らが編み出した「青春」というレッテルをアイドルというシステムに転化することによって

擬似的に、自らもその青春を追体験することができる

彼らが、CDを買い、ライブに生き、時に自らの生活が危ぶまれようとも、金をはたくその姿は

「今」から逃避し、彼女らに「青春」を転化し、ノーリスクで(青春の当事者でないから)その恩恵に預かろうという魂胆が透けて見える

そして、これはアイドルだけではない

芸能人、YouTuber、 TikTokerなどのインフルエンサーのように自らの存在をコンテンツとして成立させることを生業とするすべての人間にも該当する

かつて一般人だった過去から、スターという未来に駆け上がっていくその存在はレヴィンの言う「マージナルマン」そのものだ

なぜ近年推し活が急速に発展するのか

それは、推し活が

「今」を生きることに疲弊し、半ばの諦念を抱く人にとって究極のリスクヘッジであり、感情の転化手段だからだ

自分で「今しかできないこと」に挑戦するのは、非常に大きなリスクを孕む

夢を追って失敗したら、生活が破綻するかもしれない、将来の人生が危ぶまれるかもしれない、人を傷つけ、そして自らも傷つくかもしれない

このようなリスクを、インフルエンサーという偶像に十字架のように背負わせ

それにコストを流入することで応援し、偶像が体現する「青春」にあやかる

この構造が推し活の本質である



典型例


他者にリスクを背負わせる構造が現代の生存戦略として体現化した一つの典型例が「恋愛リアリティショー」である

自分の代わりに誰かが恋愛をする

自分は失恋に傷つくことがなく、トキメキだけを享受する

このビジネスには思わず失笑してしまった

ここまで若者はリスクに怯えるようになってしまったかと

恋愛リアリティショーの爆発的ブレイクと、出生率の歴史的低下に何も相関関係がないと言うのは無理があるだろう

リアルな恋愛や結婚、そして出産に挑戦することは、人生においてリスクとコストを孕む行為の典型例だ


人間が1日に使える感情の総量や報酬系には限度がある

画面の外からノーリスクで「恋愛の果実」だけを効率よく摂取できるシステムが完成してしまった以上

わざわざ現実という最も過酷な環境で泥を啜り、傷つくリスクを冒す人の数が減少するのは必然的な帰結だろう

恋愛リアリティーショーの繁栄そのものは問題ではない

それを生んでしまった背景に着目する必要がある

そしてその背景とは、今を生きるリスクを他者に丸投げし、その引き換えにリターンを放棄するという

歪んだリスクヘッジなのだ



最後に


我々は全員「今」という猶予を持っている

また「今しかできないこと」も持っている  

他者に全てを委ね、偶像に十字架を背負わせ、ハイリスクで不安定な時代に「救済」を求める 

甘い蜜を吸うためにインフルエンサーに「献金」し、リスクは彼らが負う 

そもそも、我々は全員がInfluencer(影響を及ぼす人)である 

今こそ、人生の主導権を再び握り、「今」を生きるべきだ








































「未来」「反抗」「存在」「奇跡」「世界」「選別」「諦念」「偶像」「十字架」「献金」「救済」





















奇跡と予定調和

制度が作り上げた予定調和の出会いを教師が「奇跡」と美化するシステム

これは宗教においては「神の教義」に変化する

偶然その教会や寺院に集まり、同じ時代に生を受け、生活を共にしているだけの信者の共同体に対し、聖職者は

「これは神の導きであり、聖なる奇跡である」とラベルを貼る

制度によって保障された予定調和の世界にロマンチシズムという聖性を持ち込んでシステムを強固にする

この手口は教師も聖職者も全く同じである


マージナルマン(境界人)

 過去(俗世)を捨て、未来(死後、神の世界、来世)へと向かう狭間に位置する信仰者は境界人そのものである

「未来のために、今という退屈で過酷な時間を耐え忍びなさい」「戒律(ルール)を守りなさい」

という聖職者の声は、「未来のために我慢しろ」「それが青春だ」という大人の声と同じだ

若者が青春という与えられた幻想に囚われるように、信者もまた「来世の救済」という幻想に囚われている」


キリストの死とは

信者たちは自らの重すぎるリスクや恐怖を神や開祖、あるいは「磔になったキリスト」という偶像に転化する

そして自らは安全な場所で、殉教することもなく、お布施や寄付などといったコスト(献金)を流入することで信仰する

それにより偶像が体現する「救済」や「奇跡」という甘い蜜にあやかろうとする


アブラハムの宗教と偶像崇拝

アブラハムの宗教(=ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が偶像崇拝を禁止する理由

それは 「ノーリスクで甘い蜜を吸われたくないから」である

もし神がに見える偶像としてそこに存在してしまったら

人々はその偶像を都合の良い身代わりとして消費し続けるだろう

自分の今を生きるリスクをその偶像(idol)に全て丸投げし

形式的な祈りなどの最低限のコストで「安心」や「救済」という甘い蜜を得ようとする

これが偶像(idol)のもたらす帰結なのである

唯一神が神を不可視なものとしたのは、信者自身が今を生きる当時者なのであって、リスクを偶像(idol)に転化してはいけない

という考えがあったからかもしれない

偶像崇拝の禁止とは、人々から安全地帯を没収し、強制的に自分の人生の主導権を握らせるためのシステム設計なのである



キリスト教というバグ


ユダヤ教やイスラム教が厳格に偶像崇拝を禁止しているのにも関わらず、キリスト教は

イエス=キリスト という偶像(idol)を歴史に登場させてしまった

信者はキリストの死というドラマにコスト(信仰、寄付)を流入することで

全人類の罪という大きすぎるリスク(十字架)をイエス1人に背負わせたのである



人間は今を生きる主体性を恐れるとき、そのリスクを偶像(idol)に転化し

物語と共同体を通じて救済を得ようとする

この構造は、宗教、青春、推し活、すべてに共通する

「なぜ私たちは学ぶのか」


「見解を聞かせてくれ」


クラスメイトから時々このような質問を受ける


私の答えはこうだ


「わからない」


こう答えるのに躊躇はする


しかしそれ以外の答え(厳密に言えば答えではないが)は見つからない


それなのに、この問いより難しそうな問いに対しては自信と確証を持って答えられる


「人生とは」「資本主義はいかにして崩壊するか」


このような議論をよく友人とする


酒も飲めない、パチ屋にも入れない17のガキ共が人生について語り合っている光景は


世の大人からすれば異様な、そして幼稚な光景かも知れないが


周囲の目線と意見はどうでもいい


向かい合って友人と語り合う時


その時世界には私と、語り合っている相手しか存在しない




話を戻そう


小学校、中学校、そして高校と


今現在私は、少なくとも12年間教育を受け続けてきているわけだ


※厳密に言えば、幼少期に親から施された教育などもあるわけだからそれより長いが


教師はよく言う


「世界には教育を受けられない子供もたくさんいる」


その言葉は「施す側(大人側)に対する礼儀を忘れるな」


このメッセージを伝えるための手段に過ぎない


実際にアフリカに行って、教育を受けられない子供とやらを目の当たりにした教師はそう多くないはずだ



彼らのあの言葉の奥底には


「教育を受けることは良いことで、人生を好転させる」


このような前提が眠っている


教師も教師で、どこか施す側の優越感というか卓越性というか


そういったものに幾分か浸っているように思える


しかし、当の施される側である我々学生たちは


「なぜ私たちは学ぶのか」


「学ばなければならないのか」


このような問いに対する答えは愚か


問題意識すら抱かない者が少なくない


この現状は


「教育を受けることが当たり前である国、日本」に生まれたから


これが一種の要因であるとも言える


しかし、教育をうけ、いわゆる思考力だとか、主体性だとかを身につけているはずの我々が


教育において最も根源的な問いと言っても過言ではない


「学ぶ理由」についてなかなか考えつかない


これはなぜか


主体性を養う教育が、主体性を奪っているのか?



22/7というアイドルグループの「命の続き」より



「なぜ生きているのかって? 明日になればわかるよ」



これをもじって



「なぜ学ぶのかって? 明日になればわかるよ」



一時期このような答えを胸に秘めていたが


なぜ学ぶのかを理解しなければ学生たちに明日は来ないであろう


この問いに正面から向き合わなければならない


考えられるパターンとしては


(i) 学びに理由などない、いや必要ない説


(ii) 答えのある問いに対する力の養成手段説


(iii)日本という国家が教育を前提にして設計されてきた説


以上の3つだ



(i) 学びに理由などない説


現代において学びが目的化していることは明白である


しかし、そもそも学ぶことに理由など必要なのか


学びが目的化した現代においては、いい大学に入るため、いい会社に入るためなど


どんな理由づけだってできる


しかし学びとは我々人類の根源的な欲求ではなかったのか


「学ぶ」の語源が「真似ぶ」というのは巷でよく耳にする話である


動物学において真似する、すなわち模倣する理由は単純で、それは


生きていくためのスキルを最速でマスターするためだからである


自力で失敗を繰り返しながら学ぶよりも、すでに成功している親や仲間の真似をする方が


安全かつ圧倒的に効率よく生き残る術を獲得できる


つまり模倣する理由は、生きるために必要だからである


真似ぶ=学ぶことは生きるために必要なこと


即ち、我々の学習とはただ「生き残りたい」という


生物なら必然的に持たざるを得ない根源的な欲求、これに突き動かされた行為なのである


強いて学びに理由を求めるならこれが唯一の解ではないか?


しかし現代における学びは、先述したように、大学、企業など社会という構造を回すために理由づけをされる節がある


簡潔に言えば


学びとは生存のための手段であったのに、 人はいつしか学びを目的へと変貌させてしまったのである


このずれ(誤謬)が我々に本来的な「学び」を見失わせているのではないだろうか


※この「ずれ」が何をもたらすかについて考察した記事は以下から





(ii) 答えのある問いに対する力の養成手段説


これは的を得ていると思う


現代に溢れかえる答えのない問いに対する力は、答えのある問いに対する力が養成する


しかしこの説は(i)で述べたように、手段を目的化した後付けである感じが否めない


よってここでは棄却したい



(iii) 日本という国家が教育を前提にして作られてきた説


日本が国家としての体裁を整えた飛鳥奈良時代に最初に作られた機関は「大学寮」


即ち、国家を支えるための官僚養成機関である


日本はこの時から、学ぶ者が国家を動かすという国へと変貌していた


江戸時代の日本人の識字率は一説によれば70〜80%だと推定されている


※この値が現在のいくつかのアフリカ諸国をうわ回っている闇についてはまたどこかで語りたい


この70~80%という数値が当時世界で如何なる水準だったか?


イギリス(ロンドン)とフランス(パリ)の例を見てみよう


当時イギリスは産業革命の真っ只中


そんなイギリス(ロンドン)の推定識字率は20~30%


続いてフランス(パリ)


推定50%前後である


世界の超大国と比べても抜きん出る識字率(教育率)であるのは明白だ


江戸というのは当時、世界的に見てもトップクラスに異質な街だという


※石原慎太郎さんの答弁動画で耳にした


江戸は当時人口100万人クラス


ロンドンで70万、パリで50万と言われていたのだから驚きだ


その100万人都市江戸において、現代の警察や役人にあたる「町奉行所」の常勤メンバーはわずか数百人程度と言われている


※今の都庁勤務の公務員の数はどれくらいだろう?


ロンドンやパリが大量の警察力を投入して治安維持に喘いでいた時代にこれは相当異質なことである


当時の体制を可能にしていたのは「書類を通じた自治」であると言われている


トラブルや税の計算、町内会のルールなど全てが回覧板的なもので処理されていた


これは江戸という都市の高い識字率、即ち良質な教育が生んだ産物である


※他にも、「世界トップクラスの循環型社会」であったなど実例はあるがここまでにしておく



いずれにせよ日本という国家は教育を前提にして回ってきた国家なのである


換言すれば、生きるために学ばざるを得なかった


ここで(i)で述べた、生存手段としての学びに帰結する



以上より、学ぶ理由とは単に良い大学に合格し、良い企業に勤めるためではなく


「それが生存のために不可欠だから」


である


この答えを自分の中にとどめておきたい




















最後に 〜この記事を読んでくれた学生へ〜


この記事は教科書ではない


なんら答えを提示するものではない


これはむしろあなた方に問いを与えるものなのだ


私の記事はこれで終わりではない


むしろ、ここから始まる


あなた方の解釈によって始まる


どうか考えることをやめないでほしい


どうか前提を疑うことをやめないでほしい



人の死とは病室のバイタルが0を示した瞬間に訪れるものではない


自ら考えることを放棄したその瞬間に訪れるものなのである





















あとがき


ご覧いただきありがとうございました


ぼっち高校生です!


今回は「なぜ学ぶのか」について考えてみました


受験が最中に差し掛かりつつあり、学生にとって最も根源的であろうこの問いに


なんら答えを出せずにいることに対する危機感が、私の脳と


キーボードを押す指を動かしました




最近は近所の社会福祉施設?を利用して勉強しています


当然お年寄りの方が多くいらっしゃって、稀に話しかけてくださる時もあります


赤本を開いて勉強しているときに、75歳の大学院卒の紳士的なおじいさんに激励の言葉をいただきました


当時は、今では多少裕福な私の祖母が貧困で大学に行けなかった時代ですから


大学院卒となると相当恵まれた環境で、なおかつ学力的にも優秀だった


それこそ現代の教育システムなど、社会の根幹を作られてこられた方なのだろうと推察します


しかし、そんな優秀な方に「がんばってくださいね」と言われた時に、いくばくかの猜疑心が私の心中をよぎりました


その激励には以下の言葉が省略されているのではないかと


「(我々が作り上げてきたシステムの中で)がんばってくださいね」


既存のシステムの抜本的改革、アップデートを目指す私には


どこか敵に塩を贈られたような、そうでもないような、不思議な気分でした


※おそらく純粋な応援の気持ちからでた言葉なのでしょうが


高みを目指すにあたって大事にしてきた「猜疑心」が


このような形で裏目に出ることになるとは思ってもみませんでした


「知は力なり」


を信奉してきた私が初めて


「知らない方がいいこともある」


に同意した瞬間でした


はじめに


この記事は


『何故私たちは選挙に行けと言われるのか』日本国憲法第12条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」ここでいう「国民の不断の努力」とは、主…リンクameblo.jp


の補足(蛇足)記事である





日本国憲法第11条



「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」



11条は、人権は国家が付与しているものではないことを示している


我々の有する基本的人権とは、生得的なものである


11条はその事実を確認、宣言しているに過ぎない






日本国憲法第12条



「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」



しばしば誤解されがちだが、12条は国民に対して、不断の努力を強制するような意図はない


「国家権力は、それに対する監視がなければ、その性質上必ず暴走する」


という重大な前提を示し、だからこそ、国民の不断の努力が必要なのだという表明なのである





日本国憲法第13条



「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」



13条は、それに対する監視がなければ、その性質上将来的に必ず暴走する国家権力に対して


公共の福祉に反しない限り、個人の基本的人権を最大限尊重するようにという命令である


ここでいう命令の主体とは、憲法の実質的な発布主体である我々日本国民である





憲法の適用範囲について



憲法は本質的に国家に適用される規範であり、実質的な発布者たる我々日本国民が名宛人を国家として設定しているものである


従って、私人間関係は憲法の適用範囲外とするのが「国家行為説(伝統的通説)」であるが、現在の通説はこれとは異なるらしい


企業による思想、表現の抑圧や言論排除など、国家並みの影響力を持つ私人(企業)による人権侵害も生じうるため


「国家だけを縛ればいいのか?」という疑問が生じる


そこで現れた現在の通説が「間接適用説」である


この説の論理は以下の通りである



憲法は直接には国家のみを拘束するが、国家は民法、労働法などを通じて私人間関係を調整する義務を負う


その際、憲法の価値(人権)が解釈指針として間接的に用いられる


だから憲法は「間接適用」されているのである



この論理に私は疑義を唱えたい


確かに憲法は人権に関する記述はあるが(11条など)それはあくまで、我々が生得的に保持している人権を再確認しているだけであって


仮に憲法に記述されていなくとも、我々は人である時点で、人権を有している


そのため、国家が私人間関係を調整する際に憲法を解釈指針としているとあるが


その必要性は皆無なのである


従って間接適用する必要性も皆無であり


故に、憲法の適用対象は唯一国家だけなのである

日本国憲法第12条 



「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」



ここでいう「国民の不断の努力」とは、主権者として、国家の権力行使を日常的に理解、評価、可視化し


必要最低限度の参加によってそれを統制し続ける実践のことである


この代表例は選挙であろう


国民は「不断の努力」により、自身の自由及び権利を保持することが可能となる


では不断の努力(実践)を行わないものはどうなるのか。彼の自由及び権利は剥奪されるのか


答えは断じて否である



日本国憲法第11条 



「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」



これが意味するものは何か


11条により権利が保障されているのなら、「国民の不断の努力」は不必要なのではないかと言う疑問が生じるであろう


確かに11条は、我々の基本的人権を保障している。ただ、その保障は「形式的な」ものである


「実質的な」権利の保障まではされていないことを見過ごしてはならない


11条は「基本的人権の侵害」が国家権力により行われることを想定してそれを違憲と評価する規範に過ぎないのである


だから11条の保障とはいかなる状況においても基本的人権は尊重されるという「形式的な」ものに過ぎない


ここで注目したいのが、「基本的人権の侵害」が国家権力により行われると言うことを想定している点である


これは



「国家権力は、それに対する監視がなければ、その性質上必ず暴走する」



という重大な事実を前提としている


この前提により、三権分立や、司法審査制が設けられている


これこそが、立憲主義の根幹なのである


国家権力とは本質的に、我々に基本的人権を付与する主体ではなく、むしろ、我々のそれを侵害しうる存在なのである


我々の基本的人権を擁護するものは、国家権力を統制する憲法や、個々の法律、そして我々の不断の努力なのである


何故、我々は政治に関心を持ち、投票をするべきだと言われなければならないのだろうか


その理由は、


それが我々の実質的な基本的人権を自ら防衛できる唯一の手段だからである









あとがき


ご覧いただきありがとうございました


ぼっち高校生です!


今回は選挙シーズンということもあり、選挙について書いてみました


私はまだ投票権すら持たないので、どうしようもないのですが


有権者の一票が、将来的な国の繁栄につながることを祈るばかりです



今回はアメブロの制限により記事を書き切れませんでした


補足程度に記すつもりだったのですが、原稿も書いてしまったこともあり


何も投稿しないのも落ち着かないので


「憲法の適用範囲について」という題名で投稿したいと思います


最後までご覧いただきありがとうございました!



追記


選挙のテーマソングは欅坂46の「サイレントマジョリティー」がいいと思います


聴いてみてください