過去と未来の狭間に


未来あっての今ではないということに薄々気づきつつも、 やはり未来のために生きようとするのが学生ではないか 

ヤングカルチャーやカウンターカルチャーなど、大人という自らの未来像に反抗することで自らの存在意義を見出す

それが学生や若者である

マージナルマン(境界人)とはドイツ出身の心理学者レヴィンが言った言葉だが

つまりそれは、子供でも大人でもないその境界部分に位置する人だという意味

子供=過去、大人=未来 だとすれば過去と未来の狭間に位置するのが学生

しかし時は未来へ向かって進んでいくのだから、狭間に置かれた人間は必然的に未来を志向することになる 

今を生きようとしない人生は退屈だとはよく言われる話だが

半ば強制的に今ではなく、未来のために生きろと言われる学生の人生は退屈であろうか

社会はこの問いにNOと答える

その解答理由は「青春」 この2文字に凝縮されている

思うに、青春という言葉や概念は、当の学生らから生じたのではなく、過去を振り返った大人たちによって生成されたラベル

足枷なのではないか

若者は「青春」という幻想に囚われ過ぎている 

両親は子供の頃の遊びや人間関係などは今振り返ればちっぽけなものだったという

これは正しいと思う 

そもそも、「今」は誰にだって存在するし、それは瞬間的で不可逆的なものだ

つまり、誰しも「今しかできないこと」を抱えて生きている

それなのに、学生特に、未成年に、「今しかできないこと」をしろなんて、大人たちがその言葉を述べるのは許されているのか

自分も、彼ら学生たちと同様に、「今しかできないこと」を抱えておきながら

それを諦め、学生たちに「今」を転化し、定められた過去を振り返り、美化する



奇跡という予定調和の世界


少なくとも小中高 まで 1クラス40人? という上限のあるコミュニティに縛られ生活をしていくわけだ

当然、出会いの数にも限界があり、人間関係の質にも限界がある

教師はよく言う

「このクラスメイトで、このクラスでいられることは奇跡だ」と

果たしてそうか?

少なくとも小中までは義務教育で、これに通わない人間はいない 

どの地域、どの学校に行こうとも、必ず誰かしらと知り合い、生活を共にすることになる

つまり、教師のいう「奇跡」は憲法と、諸制度によって確立された予定調和の世界だ 

そこに奇跡や青春などというロマンチシズムは持ち込まれるべきではない

そのロマンチシズムはあまりに過去を美化し過ぎている



坂道アイドルが巨大産業として成立する理由


坂道アイドルとは、⚪︎期生という年齢の近い数10人の少女たちで構成された閉鎖空間である

選別された結果、そこに立っている彼女らは、偶然同じオーディションを受け、偶然合格しただけの関係なのに

レッスンや合宿などを通じて、「絆」や「奇跡の出会い」というラベルを貼られていく

お気づきだろうか?

この構造は先述した、教師のいう「奇跡」の構造と酷似している

なんなら、その偶像化と言っても過言ではない

彼女たちは一般人(芸能人以外は一般人という選別方法も好きではないが)

だった過去から、「今」を体現するアイドルになり、そして、卒業を迎え大人(未来)になっていく

この構造は学生と同じものを予見させる

なぜ、アイドルは産業として成立するか?

それは、「今」という瞬間的で不可逆的な猶予を自らも抱えているのにも関わらず

それを生きることに疲れ、諦めたファンの存在が大きい

彼ら、その多くは大人だろうが、自分がとっくに失ってしまった、あるいは学生時代に手に入らなかった

彼らが編み出した「青春」というレッテルをアイドルというシステムに転化することによって

擬似的に、自らもその青春を追体験することができる

彼らが、CDを買い、ライブに生き、時に自らの生活が危ぶまれようとも、金をはたくその姿は

「今」から逃避し、彼女らに「青春」を転化し、ノーリスクで(青春の当事者でないから)その恩恵に預かろうという魂胆が透けて見える

そして、これはアイドルだけではない

芸能人、YouTuber、 TikTokerなどのインフルエンサーのように自らの存在をコンテンツとして成立させることを生業とするすべての人間にも該当する

かつて一般人だった過去から、スターという未来に駆け上がっていくその存在はレヴィンの言う「マージナルマン」そのものだ

なぜ近年推し活が急速に発展するのか

それは、推し活が

「今」を生きることに疲弊し、半ばの諦念を抱く人にとって究極のリスクヘッジであり、感情の転化手段だからだ

自分で「今しかできないこと」に挑戦するのは、非常に大きなリスクを孕む

夢を追って失敗したら、生活が破綻するかもしれない、将来の人生が危ぶまれるかもしれない、人を傷つけ、そして自らも傷つくかもしれない

このようなリスクを、インフルエンサーという偶像に十字架のように背負わせ

それにコストを流入することで応援し、偶像が体現する「青春」にあやかる

この構造が推し活の本質である



典型例


他者にリスクを背負わせる構造が現代の生存戦略として体現化した一つの典型例が「恋愛リアリティショー」である

自分の代わりに誰かが恋愛をする

自分は失恋に傷つくことがなく、トキメキだけを享受する

このビジネスには思わず失笑してしまった

ここまで若者はリスクに怯えるようになってしまったかと

恋愛リアリティショーの爆発的ブレイクと、出生率の歴史的低下に何も相関関係がないと言うのは無理があるだろう

リアルな恋愛や結婚、そして出産に挑戦することは、人生においてリスクとコストを孕む行為の典型例だ


人間が1日に使える感情の総量や報酬系には限度がある

画面の外からノーリスクで「恋愛の果実」だけを効率よく摂取できるシステムが完成してしまった以上

わざわざ現実という最も過酷な環境で泥を啜り、傷つくリスクを冒す人の数が減少するのは必然的な帰結だろう

恋愛リアリティーショーの繁栄そのものは問題ではない

それを生んでしまった背景に着目する必要がある

そしてその背景とは、今を生きるリスクを他者に丸投げし、その引き換えにリターンを放棄するという

歪んだリスクヘッジなのだ



最後に


我々は全員「今」という猶予を持っている

また「今しかできないこと」も持っている  

他者に全てを委ね、偶像に十字架を背負わせ、ハイリスクで不安定な時代に「救済」を求める 

甘い蜜を吸うためにインフルエンサーに「献金」し、リスクは彼らが負う 

そもそも、我々は全員がInfluencer(影響を及ぼす人)である 

今こそ、人生の主導権を再び握り、「今」を生きるべきだ








































「未来」「反抗」「存在」「奇跡」「世界」「選別」「諦念」「偶像」「十字架」「献金」「救済」





















奇跡と予定調和

制度が作り上げた予定調和の出会いを教師が「奇跡」と美化するシステム

これは宗教においては「神の教義」に変化する

偶然その教会や寺院に集まり、同じ時代に生を受け、生活を共にしているだけの信者の共同体に対し、聖職者は

「これは神の導きであり、聖なる奇跡である」とラベルを貼る

制度によって保障された予定調和の世界にロマンチシズムという聖性を持ち込んでシステムを強固にする

この手口は教師も聖職者も全く同じである


マージナルマン(境界人)

 過去(俗世)を捨て、未来(死後、神の世界、来世)へと向かう狭間に位置する信仰者は境界人そのものである

「未来のために、今という退屈で過酷な時間を耐え忍びなさい」「戒律(ルール)を守りなさい」

という聖職者の声は、「未来のために我慢しろ」「それが青春だ」という大人の声と同じだ

若者が青春という与えられた幻想に囚われるように、信者もまた「来世の救済」という幻想に囚われている」


キリストの死とは

信者たちは自らの重すぎるリスクや恐怖を神や開祖、あるいは「磔になったキリスト」という偶像に転化する

そして自らは安全な場所で、殉教することもなく、お布施や寄付などといったコスト(献金)を流入することで信仰する

それにより偶像が体現する「救済」や「奇跡」という甘い蜜にあやかろうとする


アブラハムの宗教と偶像崇拝

アブラハムの宗教(=ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が偶像崇拝を禁止する理由

それは 「ノーリスクで甘い蜜を吸われたくないから」である

もし神がに見える偶像としてそこに存在してしまったら

人々はその偶像を都合の良い身代わりとして消費し続けるだろう

自分の今を生きるリスクをその偶像(idol)に全て丸投げし

形式的な祈りなどの最低限のコストで「安心」や「救済」という甘い蜜を得ようとする

これが偶像(idol)のもたらす帰結なのである

唯一神が神を不可視なものとしたのは、信者自身が今を生きる当時者なのであって、リスクを偶像(idol)に転化してはいけない

という考えがあったからかもしれない

偶像崇拝の禁止とは、人々から安全地帯を没収し、強制的に自分の人生の主導権を握らせるためのシステム設計なのである



キリスト教というバグ


ユダヤ教やイスラム教が厳格に偶像崇拝を禁止しているのにも関わらず、キリスト教は

イエス=キリスト という偶像(idol)を歴史に登場させてしまった

信者はキリストの死というドラマにコスト(信仰、寄付)を流入することで

全人類の罪という大きすぎるリスク(十字架)をイエス1人に背負わせたのである



人間は今を生きる主体性を恐れるとき、そのリスクを偶像(idol)に転化し

物語と共同体を通じて救済を得ようとする

この構造は、宗教、青春、推し活、すべてに共通する

「なぜ私たちは学ぶのか」


「見解を聞かせてくれ」


クラスメイトから時々このような質問を受ける


私の答えはこうだ


「わからない」


こう答えるのに躊躇はする


しかしそれ以外の答え(厳密に言えば答えではないが)は見つからない


それなのに、この問いより難しそうな問いに対しては自信と確証を持って答えられる


「人生とは」「資本主義はいかにして崩壊するか」


このような議論をよく友人とする


酒も飲めない、パチ屋にも入れない17のガキ共が人生について語り合っている光景は


世の大人からすれば異様な、そして幼稚な光景かも知れないが


周囲の目線と意見はどうでもいい


向かい合って友人と語り合う時


その時世界には私と、語り合っている相手しか存在しない




話を戻そう


小学校、中学校、そして高校と


今現在私は、少なくとも12年間教育を受け続けてきているわけだ


※厳密に言えば、幼少期に親から施された教育などもあるわけだからそれより長いが


教師はよく言う


「世界には教育を受けられない子供もたくさんいる」


その言葉は「施す側(大人側)に対する礼儀を忘れるな」


このメッセージを伝えるための手段に過ぎない


実際にアフリカに行って、教育を受けられない子供とやらを目の当たりにした教師はそう多くないはずだ



彼らのあの言葉の奥底には


「教育を受けることは良いことで、人生を好転させる」


このような前提が眠っている


教師も教師で、どこか施す側の優越感というか卓越性というか


そういったものに幾分か浸っているように思える


しかし、当の施される側である我々学生たちは


「なぜ私たちは学ぶのか」


「学ばなければならないのか」


このような問いに対する答えは愚か


問題意識すら抱かない者が少なくない


この現状は


「教育を受けることが当たり前である国、日本」に生まれたから


これが一種の要因であるとも言える


しかし、教育をうけ、いわゆる思考力だとか、主体性だとかを身につけているはずの我々が


教育において最も根源的な問いと言っても過言ではない


「学ぶ理由」についてなかなか考えつかない


これはなぜか


主体性を養う教育が、主体性を奪っているのか?



22/7というアイドルグループの「命の続き」より



「なぜ生きているのかって? 明日になればわかるよ」



これをもじって



「なぜ学ぶのかって? 明日になればわかるよ」



一時期このような答えを胸に秘めていたが


なぜ学ぶのかを理解しなければ学生たちに明日は来ないであろう


この問いに正面から向き合わなければならない


考えられるパターンとしては


(i) 学びに理由などない、いや必要ない説


(ii) 答えのある問いに対する力の養成手段説


(iii)日本という国家が教育を前提にして設計されてきた説


以上の3つだ



(i) 学びに理由などない説


現代において学びが目的化していることは明白である


しかし、そもそも学ぶことに理由など必要なのか


学びが目的化した現代においては、いい大学に入るため、いい会社に入るためなど


どんな理由づけだってできる


しかし学びとは我々人類の根源的な欲求ではなかったのか


「学ぶ」の語源が「真似ぶ」というのは巷でよく耳にする話である


動物学において真似する、すなわち模倣する理由は単純で、それは


生きていくためのスキルを最速でマスターするためだからである


自力で失敗を繰り返しながら学ぶよりも、すでに成功している親や仲間の真似をする方が


安全かつ圧倒的に効率よく生き残る術を獲得できる


つまり模倣する理由は、生きるために必要だからである


真似ぶ=学ぶことは生きるために必要なこと


即ち、我々の学習とはただ「生き残りたい」という


生物なら必然的に持たざるを得ない根源的な欲求、これに突き動かされた行為なのである


強いて学びに理由を求めるならこれが唯一の解ではないか?


しかし現代における学びは、先述したように、大学、企業など社会という構造を回すために理由づけをされる節がある


簡潔に言えば


学びとは生存のための手段であったのに、 人はいつしか学びを目的へと変貌させてしまったのである


このずれ(誤謬)が我々に本来的な「学び」を見失わせているのではないだろうか


※この「ずれ」が何をもたらすかについて考察した記事は以下から





(ii) 答えのある問いに対する力の養成手段説


これは的を得ていると思う


現代に溢れかえる答えのない問いに対する力は、答えのある問いに対する力が養成する


しかしこの説は(i)で述べたように、手段を目的化した後付けである感じが否めない


よってここでは棄却したい



(iii) 日本という国家が教育を前提にして作られてきた説


日本が国家としての体裁を整えた飛鳥奈良時代に最初に作られた機関は「大学寮」


即ち、国家を支えるための官僚養成機関である


日本はこの時から、学ぶ者が国家を動かすという国へと変貌していた


江戸時代の日本人の識字率は一説によれば70〜80%だと推定されている


※この値が現在のいくつかのアフリカ諸国をうわ回っている闇についてはまたどこかで語りたい


この70~80%という数値が当時世界で如何なる水準だったか?


イギリス(ロンドン)とフランス(パリ)の例を見てみよう


当時イギリスは産業革命の真っ只中


そんなイギリス(ロンドン)の推定識字率は20~30%


続いてフランス(パリ)


推定50%前後である


世界の超大国と比べても抜きん出る識字率(教育率)であるのは明白だ


江戸というのは当時、世界的に見てもトップクラスに異質な街だという


※石原慎太郎さんの答弁動画で耳にした


江戸は当時人口100万人クラス


ロンドンで70万、パリで50万と言われていたのだから驚きだ


その100万人都市江戸において、現代の警察や役人にあたる「町奉行所」の常勤メンバーはわずか数百人程度と言われている


※今の都庁勤務の公務員の数はどれくらいだろう?


ロンドンやパリが大量の警察力を投入して治安維持に喘いでいた時代にこれは相当異質なことである


当時の体制を可能にしていたのは「書類を通じた自治」であると言われている


トラブルや税の計算、町内会のルールなど全てが回覧板的なもので処理されていた


これは江戸という都市の高い識字率、即ち良質な教育が生んだ産物である


※他にも、「世界トップクラスの循環型社会」であったなど実例はあるがここまでにしておく



いずれにせよ日本という国家は教育を前提にして回ってきた国家なのである


換言すれば、生きるために学ばざるを得なかった


ここで(i)で述べた、生存手段としての学びに帰結する



以上より、学ぶ理由とは単に良い大学に合格し、良い企業に勤めるためではなく


「それが生存のために不可欠だから」


である


この答えを自分の中にとどめておきたい




















最後に 〜この記事を読んでくれた学生へ〜


この記事は教科書ではない


なんら答えを提示するものではない


これはむしろあなた方に問いを与えるものなのだ


私の記事はこれで終わりではない


むしろ、ここから始まる


あなた方の解釈によって始まる


どうか考えることをやめないでほしい


どうか前提を疑うことをやめないでほしい



人の死とは病室のバイタルが0を示した瞬間に訪れるものではない


自ら考えることを放棄したその瞬間に訪れるものなのである





















あとがき


ご覧いただきありがとうございました


ぼっち高校生です!


今回は「なぜ学ぶのか」について考えてみました


受験が最中に差し掛かりつつあり、学生にとって最も根源的であろうこの問いに


なんら答えを出せずにいることに対する危機感が、私の脳と


キーボードを押す指を動かしました




最近は近所の社会福祉施設?を利用して勉強しています


当然お年寄りの方が多くいらっしゃって、稀に話しかけてくださる時もあります


赤本を開いて勉強しているときに、75歳の大学院卒の紳士的なおじいさんに激励の言葉をいただきました


当時は、今では多少裕福な私の祖母が貧困で大学に行けなかった時代ですから


大学院卒となると相当恵まれた環境で、なおかつ学力的にも優秀だった


それこそ現代の教育システムなど、社会の根幹を作られてこられた方なのだろうと推察します


しかし、そんな優秀な方に「がんばってくださいね」と言われた時に、いくばくかの猜疑心が私の心中をよぎりました


その激励には以下の言葉が省略されているのではないかと


「(我々が作り上げてきたシステムの中で)がんばってくださいね」


既存のシステムの抜本的改革、アップデートを目指す私には


どこか敵に塩を贈られたような、そうでもないような、不思議な気分でした


※おそらく純粋な応援の気持ちからでた言葉なのでしょうが


高みを目指すにあたって大事にしてきた「猜疑心」が


このような形で裏目に出ることになるとは思ってもみませんでした


「知は力なり」


を信奉してきた私が初めて


「知らない方がいいこともある」


に同意した瞬間でした


世界を支配する「回帰」




仮説1 


世界とは、構造と解釈の再帰的循環、換言すれば、


法や制度など諸々の「システム」と


それに対する我々の解釈が相互に影響し合うことにより生成され続ける動的モデルなのではないか



システムがそれに対する我々の解釈を作らせ、


我々の解釈が、新たなシステムを作る


この果てなき動的な循環が世界を「作り続ける」





仮説2


構造と解釈のエラー(誤謬)が、世界を生成し続ける原動力なのではないか


100%正しい人間がいないのは明白


では、その人間が作るシステムも100%正しいものにはなり得ない


そのシステム(構造)に対する解釈も必然的に誤り得る


その誤りは蓄積していく


phase1で誤謬が生じると、その影響を受けて続くphase2にも誤謬は蓄積されていく


誤謬が蓄積してある段階に到達すると、「回帰」が生じるのではないか


回帰とは「原点的なもの」へと戻る動きである


原点ではなく、原点的なとしたのは


「原点」という言葉が、どこか固定的で単一的なイメージを予見させるからである


原点的なものを内包する世界が生成され続けるのなら、原点的なものもその都度変化しうる


「万物は流転する」という言葉は非常に的を得ている


「原点的なもの」とは、今の段階で私は


「あるものをあるものたらしめる最小限の構造かつ、必然的な暗黙の解釈」


であると想定しているが、より一層の精密化と検討を要すると思う


歴史的実例としてルネサンス、宗教改革、そして、キリストの死すら語ることができるのではないか


ルネサンスとは、中世の神中心構造と我々人間の解釈の誤差蓄積から


古典的な人間観への回帰によって生じた現象


宗教改革とは、教会制度の誤謬蓄積から、信仰の原点的なもの(聖書など)への回帰によって生じた現象


キリストの死とは、律法構造(旧約)の誤差蓄積から、愛という原点的なものへの回帰によって生じた現象





結論


世界 = 構造 × 解釈 


で表せる


そして構造と解釈の再帰的な循環がエラーを生む


そのエラーが次の再帰的循環を生じさせ、世界を動かし続ける





私はこの思想を


回帰主義


と命名する













あとがき


ご覧いただきありがとうございました


ぼっち高校生です!


めちゃくちゃ久しぶりのブログ更新となってしまいました


まず無事に進級でき、高校3年生になったことをご報告します


そして17歳になり、一歩死に近づいたなという感覚です


大学受験勉強も今のところは順調で、比較的平穏な暮らしを送れています




今回の回帰主義は「世界を支配する法則は何か?」


という問いに自分なりに答えたものです


なぜこの問いに答えざるを得なかったのか


子供は高校を卒業し、新たな世界へといつかは飛び出していかないといけません


そして、一生で得られる経験や知識は限られます


そのため、核となる法則を発見し、その都度その考えを更新して上手く生きていこう!


というような、私の一種の生存戦略のようなものだと考えてください



回帰主義について、そして自分自身について


これからもブログを更新していこうと考えています


応援よろしくお願いします


ここまでご覧いただきありがとうございました!


はじめに


この記事は


『何故私たちは選挙に行けと言われるのか』日本国憲法第12条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」ここでいう「国民の不断の努力」とは、主…リンクameblo.jp


の補足(蛇足)記事である





日本国憲法第11条



「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」



11条は、人権は国家が付与しているものではないことを示している


我々の有する基本的人権とは、生得的なものである


11条はその事実を確認、宣言しているに過ぎない






日本国憲法第12条



「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」



しばしば誤解されがちだが、12条は国民に対して、不断の努力を強制するような意図はない


「国家権力は、それに対する監視がなければ、その性質上必ず暴走する」


という重大な前提を示し、だからこそ、国民の不断の努力が必要なのだという表明なのである





日本国憲法第13条



「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」



13条は、それに対する監視がなければ、その性質上将来的に必ず暴走する国家権力に対して


公共の福祉に反しない限り、個人の基本的人権を最大限尊重するようにという命令である


ここでいう命令の主体とは、憲法の実質的な発布主体である我々日本国民である





憲法の適用範囲について



憲法は本質的に国家に適用される規範であり、実質的な発布者たる我々日本国民が名宛人を国家として設定しているものである


従って、私人間関係は憲法の適用範囲外とするのが「国家行為説(伝統的通説)」であるが、現在の通説はこれとは異なるらしい


企業による思想、表現の抑圧や言論排除など、国家並みの影響力を持つ私人(企業)による人権侵害も生じうるため


「国家だけを縛ればいいのか?」という疑問が生じる


そこで現れた現在の通説が「間接適用説」である


この説の論理は以下の通りである



憲法は直接には国家のみを拘束するが、国家は民法、労働法などを通じて私人間関係を調整する義務を負う


その際、憲法の価値(人権)が解釈指針として間接的に用いられる


だから憲法は「間接適用」されているのである



この論理に私は疑義を唱えたい


確かに憲法は人権に関する記述はあるが(11条など)それはあくまで、我々が生得的に保持している人権を再確認しているだけであって


仮に憲法に記述されていなくとも、我々は人である時点で、人権を有している


そのため、国家が私人間関係を調整する際に憲法を解釈指針としているとあるが


その必要性は皆無なのである


従って間接適用する必要性も皆無であり


故に、憲法の適用対象は唯一国家だけなのである

日本国憲法第12条 



「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」



ここでいう「国民の不断の努力」とは、主権者として、国家の権力行使を日常的に理解、評価、可視化し


必要最低限度の参加によってそれを統制し続ける実践のことである


この代表例は選挙であろう


国民は「不断の努力」により、自身の自由及び権利を保持することが可能となる


では不断の努力(実践)を行わないものはどうなるのか。彼の自由及び権利は剥奪されるのか


答えは断じて否である



日本国憲法第11条 



「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」



これが意味するものは何か


11条により権利が保障されているのなら、「国民の不断の努力」は不必要なのではないかと言う疑問が生じるであろう


確かに11条は、我々の基本的人権を保障している。ただ、その保障は「形式的な」ものである


「実質的な」権利の保障まではされていないことを見過ごしてはならない


11条は「基本的人権の侵害」が国家権力により行われることを想定してそれを違憲と評価する規範に過ぎないのである


だから11条の保障とはいかなる状況においても基本的人権は尊重されるという「形式的な」ものに過ぎない


ここで注目したいのが、「基本的人権の侵害」が国家権力により行われると言うことを想定している点である


これは



「国家権力は、それに対する監視がなければ、その性質上必ず暴走する」



という重大な事実を前提としている


この前提により、三権分立や、司法審査制が設けられている


これこそが、立憲主義の根幹なのである


国家権力とは本質的に、我々に基本的人権を付与する主体ではなく、むしろ、我々のそれを侵害しうる存在なのである


我々の基本的人権を擁護するものは、国家権力を統制する憲法や、個々の法律、そして我々の不断の努力なのである


何故、我々は政治に関心を持ち、投票をするべきだと言われなければならないのだろうか


その理由は、


それが我々の実質的な基本的人権を自ら防衛できる唯一の手段だからである









あとがき


ご覧いただきありがとうございました


ぼっち高校生です!


今回は選挙シーズンということもあり、選挙について書いてみました


私はまだ投票権すら持たないので、どうしようもないのですが


有権者の一票が、将来的な国の繁栄につながることを祈るばかりです



今回はアメブロの制限により記事を書き切れませんでした


補足程度に記すつもりだったのですが、原稿も書いてしまったこともあり


何も投稿しないのも落ち着かないので


「憲法の適用範囲について」という題名で投稿したいと思います


最後までご覧いただきありがとうございました!



追記


選挙のテーマソングは欅坂46の「サイレントマジョリティー」がいいと思います


聴いてみてください

他者との比較が生む悲劇


絶対的な基準が存在しない事象に関して、人は比較を通じて自らの状態を判断する


幸福もまたその一例である


社会一般において、「幸福」の厳密な定義は存在しない


しかしながら、我々は誰しも「幸福の理想像」は持っている


この理想像は、経済力、社会的地位、人生経験など、さまざまな観点において


自らが意識的、或いは、無意識的に設定した比較対象との対比を通じて生成される


即ち、幸福とは価値的・序列的比較に依存した評価に過ぎないのである






不幸は自らが作り出す虚構である


では、比較対象が極限まで消え去った状態を想定してみよう


ホッブスのいう「自然状態」において、ただ1人の人間が存在すると仮定する


ただし彼は、社会的知識や他者概念を一切持たず


生物として原初的に備わる感覚機能のみを有しているものとする


このような状況下で、彼は一瞬でも自身を「不幸」と評価するだろうか


答えは否である


ただし、ここで重要なのは、「否定的な主観状態が一切生じない」わけではないことだ


感覚を有する以上、彼は空腹や寒さ、痛みといった不快刺激を経験する


これらは先ほどより不快であるという差異検出を通じて認識される


しかしこの段階で生じているのは「不幸」ではなく


生命を維持するためのフィードバックに過ぎない


換言すれば、空腹や寒さなどにより原初的な欲求が満たされていない時


人は「不幸」ではなく、「反省(フィードバック)」を感じるだけなのだ


例えば、空腹状態はやがて生命を脅かす危険につながるため


脳は「この状態は好ましくない」と判断し、次の行動を修正する


この過程は「刺激-反応-学習」という単なる因果的メカニズムに基づくものであり


そこに「不幸」「人生は辛い」などの否定的な評価が生まれるわけではない


仮に、その時、「私は不幸だ」などと考えているのだとすれば


それは「自らが作り出した虚構」に過ぎない


あなたは「幸福」を奪われているわけではない






火星生活実験


この点を理解する上で、火星生活実験(隔離居住実験)は非常に示唆的である


閉鎖環境下では、地球上で有効だった社会的ステータス、例えば、高級車、居住空間、肩書きなどは全て機能を失う


比較すべき外部の他者が遮断されることで、社会的・序列的比較に基づく価値判断


即ち「幸福判断」はやがて行われなくなるという


その結果、被験者の関心は、「幸福」「成功」といったものから、睡眠、健康、協調、資源管理といった


生命維持に直結する領域へと収束するという


これは、比較対象が消失すれば、幸福、不幸という価値判断が行われなくなることを示している


従って、人間にとって幸福や不幸は本質的属性ではない


人間が生得的に備えているのは、生命維持に必要なことだけであり


幸福判断に用いられる価値的・序列的比較は、他者や社会構造により作り出された「空虚な評価結果」である






対策


では具体的に幸福、不幸といった二分法的評価から逃れるにはどうすればいいか


人間は、比較を行っている自己そのものを捉える能力、いわゆる、メタ認知能力を有している


この機能により、我々は、他者との比較をただ黙って受け入れるのではなく、


それを保留することが可能なのである






ショウペンハウアー否定


ショウペンハウアーは欲求が満たされない状態を「苦悩」と呼び


人生を「苦悩と退屈の連続」と主張した


ここで彼の言う欲求とは、社会的ステータスだけではなく、生存を含むあらゆる衝動を貫く意志である


しかしながら、現代的観点から見れば、全ての欲求を同じ意志として捉えることは再検討の余地がある


睡眠や飲食などの原初的欲求の不充足が導くのは、精神的価値判断としての苦悩(不幸)というより


生命維持機能が発する単なる警告である


「人生は苦悩と退屈の連続である」というショウペンハウアーの主張は


欲求・比較・価値判断の水準を区別せず、それぞれを同一のものとして捉えている点で論理的に誤謬なのである






総括


苦悩が問題となるのは、「私は他者より劣っている」や「理想像には程遠い」という評価を自身へ下す時である


これらは自分を「不幸」にする源泉である


しかしながら、先述した「メタ認知」により


我々は「不幸」を感じなくてもよくなる、少なくともその手段は持ち合わせている


「不幸」は回避可能で、一つの解釈に過ぎないのである




2025年12月31日


今年中にどうしても終えたいタスクを抱えながら私は品川駅の新幹線プラットホームに立っていた


それは



アニメの聖地巡礼である!!!



そのアニメとは「ラブライブ!サンシャイン!」である




どんな話なのかは各自見て確認してほしいが


めちゃめちゃ簡単に言うと


「今を輝こう」と言う話である



昔から勉強など、将来のことばかり見据えて行動してきた私にとって


「今を生きる」という発想は存在しなかった


「未来に後悔しないための今」を生きてきた私は見事にこのアニメに引き摺り込まれた



「今を楽しむ」という発想は私にとって衝撃的だった





アニメについて詳しくこの記事で語るつもりはない


内容は自分の目で確かめてほしい



アニメの内容以上に衝撃的だったのは、このアニメの「聖地」である


静岡県沼津市だった



アメブロは1記事あたり15枚しか写真が投稿できない仕様なので、


この記事ではアニメ聖地巡礼の様子をまとめる


次の記事では、巡礼を通じて、地方創生に必要な公式(formula)を考えてみる






品川駅から沼津駅の一個手前の三島駅まで新幹線で35分





東海道線に乗り換え


電車で5分で沼津駅に到着!




ここでまず衝撃を受けることになる





JR 沼津駅前










これがJR沼津駅である!


なんと、「ラブライブ!サンシャイン!」のバナーが展示されているではないか!



ご覧の通り、このアニメは沼津市と切っても切り離せない関係にありそうだ



そして私はこの仮説の確証をさらに得ていくこととなる












こちらは沼津市の商店街である


ご覧の通り「ラブライブ!サンシャイン!」のバナーが散見される


ここまでアニメと結びついた都市は他にあっただろうか いやない (反語)












こちらは「沼津仲見世商店街」の様子である


みなさま言いたいことはお分かりだと思う




今掲載した写真はどれも沼津駅周辺の様子なのだが、実は


「ラブライブ!サンシャイン!」にとっては沼津駅前は外堀のようなものなのである


沼津駅からバスで40分ほど


さらに南にあたる「内浦地区」


ここが作品の本丸だ






内浦地区






なんといっても富士山が近い


富士山は5号目まで車で登ったことはあるのだが


内浦地区の方がはるかに富士山を身直に感じられる








アニメの世界と現実の世界が繋がっていると錯覚するほどの近似である



次記事へ続く.....


2026年初投稿です


本年もよろしくお願いします


今現在高2の私は、今年の4月から高3となり


大学受験がいよいよ迫ってきています





大学受験について


私は平生より「受験で点を取るための勉強」ではなく「科目に対する本質的な理解」を心がけてきました


なぜなら、受験で点を取るための勉強目的と手段が反転していると思うからです


目先の点数に固執するあまり、勉強の本来的な目標を見失っている学生が多々いると思います


それは学生の保護者や世間も然りです


勉強とは本来高校や大学に合格するための手段ではないはずです


なぜなら、学校で習う科目のほとんどが社会で不必要なものだからです


少なくとも私は、社会で「因数分解」が使われているところを見たことはありません


ある科目の習得や理解を通じて養われる「力」などに価値があると思います


従って、勉強によって得られた合格は副産物であり


その過程で研鑽された「論理的思考力」や「課題解決の姿勢」こそが


今後の私の人生に寄与するものであると確信しています


だから私は予備校には通わないし、あえて少し遠回りをした勉強法を実践したりしています


コスパやテクニックが重視される今こそ、物事に対する愚直な洞察が不可欠であると思います


少なくとも、AIの登場により既存の知識の価値は指数関数的に陳腐化することは明白です


そのような時代にこそ、本質的な理解や、分野横断的な教養に価値が見出されるのではないでしょうか


予備校の言う通りに勉強して、立派な大学の門をくぐる学生が何人もいるかもしれない


しかし、彼らが三年間を通じて得た学習の成果がどれほど彼らの人生に寄与するでしょうか


私の周囲が大学合格のために効率やテクニックを重視するようになってくることは目に見えています


そんな中でも私は、「本質的な理解」を重視し続けたい


自分の軸がぶれないよう真摯に日々の学業に取り組んでいきたいと思っています




専攻どうする?


専攻について


今のところは、法学部政治学科を希望しています


さらに厳密に言えば、「政治思想」「安全保障」「憲法解釈」「政治哲学」に興味を持っています


改めて学問の名前だけ見ると厳めしいものの羅列に思えますね


なぜ自分がこういった分野に興味を持ったのか、心当たりがあるのは


幼少期からの読書経験です


昔から、歴史、思想、哲学といった本を読んできて、事実の背景や、前提を疑う力


様々な分野を結びつけて推測する力などが無意識的に養われてきたのだと思います


また、新聞やニュースで、政治や国際関係に触れてきたことが起因しているのではないかと思っています




今後


このブログは受験期間もできるだけ時間を作って更新し続けたいと思っています


一番最初の記事でも書いたように、私はブログを通じて自分の思考を言語化することに価値の比重を置いています




2026年は忙しい年になると思います


また、人生で一番成長を実感できる年にしたいと思っています


いよい勝負の一年が始まります


本年もこのブログをよろしくお願いいたします





追記 2025年最後のサンセット



前提 


私はいかなる宗教にも属していない


また他の死生観、宗教を否定するつもりもない




はじめに


死は誰にでも訪れるものであって決して悲観するべきものではない


その人が「生きていた」ことを証明する手段として最も強力なものは何か


それは、その人が「死ぬこと」である


死によって、生きていたことを証明できる


死の以前の状態は「生」以外の何ものでもないからである




墓参りが表す死の意味


親族の墓、有名な戦国武将の墓、もしくは見知らぬ人の墓


我々が墓前に立った時共通して行う行為がある


「合掌」

※合掌は日本や仏教圏でのみ見られる特徴だが、欧米圏でも黙祷や十字を切る行為など、同様の意義を持つ行為は在る


我々は名前を知っていたり、生前親交があった親族だけでなく


生きている時代が全く異なる戦国武将や


見たことも聞いたことも無い、いわば自分にとって無名の人の墓前でも


合掌を行う


「合掌」をすることで墓の中で眠っている「何か」

※この「何か」は個人の信仰する宗教等によって変動するだろう


に対して


「敬意と尊崇の念を表している」


のである


なぜ、墓に眠っている人に対して「敬意と尊崇」を抱くのだろうか


※仮に抱いていなかったとしても、我々は合掌という行為をしているのだから

少なくともその重要性は認識しているはずである



我々が死者に対して敬意と尊崇の念を表するのは


「彼ら(死者)が我々(生者)が未到達である「死」という領域に到達したという意味で、我々より先行しているからである」


さらに厳密に言えば


「我々は死者の普遍性に対して敬意と尊崇を示している」のである


彼らは皆、「人間の普遍的な運命」を体現している


彼らの有り様は、「人間であることの終着点」を示している







ガーナの例から見る死の意味


ガーナという国の一部地域では、死を「人生の達成」「新たな領域への進出」などと、喜ばしいこととしてみなす


そのため、専門のパフォーマーが棺を担いでダンスを披露する


※これが「棺桶ダンス」としてネット上に散見されることは若い世代を中心に周知のことである





「死」とは「人生の完成」や「未知の領域への進出」である


短命だった人も、天寿を全うした人も、死によって人生が完成するという意味ではなんら変わりない


つまり、両者とも、同じ一つの人生を生きていたことになんら変わりはない


つまり両者は何も変わらないのである






善の対象


我々は生前、他者の目や社会的な評判を気にして生きている


しかし、人生という物語の最後に、その全貌をたった1人で、最も厳密に見届ける存在がいる


それは「自分自身」である


もちろん「死」を看取ってくれる人はいるかもしれない


死後の自分を語ってくれる人もいるかもしれない


しかし、彼らが知り、語ることのできる部分は「死すべき人」のほんの表面的部分にすぎない


厳密に死すべき人の人生を把握することができるのは「死すべき人自身」に他ならない


自分とは、「自分にとって最大の理解者であり、かつ最後の評価者」である


最後の審判を下すのは神でも、天使でも、仏でもない


自分自身なのである


ならば、我々は生前何を目指して生きるべきか


評価者で最終審判者たる自分自身が


人生を「価値あるものだった」「意味あるものだった」


と静かにうなづけるように行為すること


それが本来的に、人の生きる目的なのである


自分が正しいと信じること、自分にとって善いと思うことを積み重ねていく


究極的な「善」は必然的に「社会にとっての善」に帰結する

※利己的な善ではなく、普遍的な善


すなわち、「自分にとっての善」=「社会にとっての善」となる


それはなぜか


社会を構成しているのは、自分と同じ人間だからである


自分と同じ、一つの人生を生きている他者が社会を構成しているからである


※歩んでいる人生が同じなのではなく、人生というものを歩んでいるという意味で自己と他者は同一である


どれだけ社会に貢献したか、どれだけ他人に貢献したか


これらの行動はその瞬間は決して自分のためにはならないし、利益を得られるわけではない

※利益を求めるのがそもそも誤りであるが


しかし、その行動は、死にゆく自分自身を肯定することのできる立派な根拠となる


自分を必要としている人の役に立ってあげる、可能ならば、自分を必要としていない人にも貢献する


こういった行動は結局、自分に対する貢献なのである





総じて、死とは人生の達成であり、未知なる領域への進出である


したがって、死を不用意に恐れず、死者に対して敬意と尊崇の念を抱くことこそ


死者にとっても、また、やがて死すべき我々にとっても適切な態度なのである



お金の本質


貨幣経済において、「お金」とは


物やサービスと交換できる「アイテム」にすぎない


お金そのものに価値があるのではなく


お金と交換することによって得られる「物やサービス」に価値がある


さらに厳密に言えば


「物やサービスによって得られる幸福に価値がある」


だからこそ、「お金」にこだわるのではなく


お金を物やサービスと引き換えて得られる「幸福」にこだわってほしい


預金残高がいくら増えても、持ってる株の株価がいくら上がっても


あなたは幸せにはなれない


これに気づかない人は、いくら裕福でも幸せにはなれない



預金残高が多くても、満足度の低い生活を送っている人は、幸福にはなり得ないのである


節約のために、安価で、栄養価の低い食べ物だけ食べる人


節約のために、電気をつけずにスマホを見る人


節約のために、季節外れでボロボロの服をいつまでも着ている人


こういう人は結局、健康という1番の財産を失い、機会費用も失い


最終的に幸福をも失うことになる





消費行動の変化〜所有から利用へ〜


物を所有するという行為はもはや時代遅れになりつつある


現在は物を所有することよりも、利用することに消費行動の主軸が置かれており


サブスクリプションサービスの台頭などがこれを裏付ける根拠となる


この変化は、消費行動において


物を所有する優越感よりも、物を利用する「満足感」への変化を表している


高級車や、ブランド物を所有することが一種のステータスだった時代はもう終わった

※これらにも実はまだ価値が残されているという話は後述する




生活は足し算より引き算


物の所有に固執することはもうやめた方がいい


先述したとおり、それは時代遅れだし、物は墓場に持っていけない


物から脱却するためには物に対する根本的な認識を変える必要がある


物はあればあるほど幸せになれると勘違いしている人が少なくない


これは前時代的、西洋的価値観で、専門的にいうと物質主義(マテアリズム)という


次の写真を見てほしい


龍安寺の石庭 修学旅行で撮影



ヴェルサイユ宮殿の庭園


この2枚の写真の比較を通じて、西洋的価値観と東洋的価値観の違いを感じ取ってほしい


両者は土地の規模感が違うため、純粋な比較は難しいと思うが、あえていうなら両者の違いは


「足し算」か「引き算」か


である


ヴェルサイユ宮殿が足し算、龍安寺が引き算である


ヴェルサイユ宮殿は噴水や木々など、豪華さを足し算することで優越感を示している


龍安寺の石庭は、物を省くことにより生まれた余白と静けさによって心の幸福を示している


こういう比較ができるのではないか


日本人は侘び寂びや禅など「引き算」によって幸福を感じてきた


結局、物を足せば幸せになるというのは、東洋人の我々には無縁な話なのだ


それどころかこの神話は西洋人にとっても無縁だと実験が示している


アメリカの心理学者、バリー・シュワルツは「選択肢のパラドックス」を提唱し


「選択肢が多すぎると人はかえって不幸になる」


と指摘している


物を多く買い、多く所有することで意図的に選択肢を増やす


それによって人は幸せになるどころか、不幸になるのである




例外


以前のべた「高級車」や「ブランド物」は最高の価値がある


これらはただ所有できるだけでなく「資産」として相続することができる


フランスの経済学者トマ・ピケティの「21世紀の資本」より


r(資本収益率)>g(経済成長率)


簡単に言えば、


我々が持っている資本の価値は、今後も上昇していく可能性がある


自分の跡を継ぐ将来世代のために、資産となる物を幾らか買い残すことは有益かもしれない




幸せになりたいなら人に奢ろう


一見するとこの主張は矛盾を孕んでいるように見えるが、意外とそうではない


カナダの心理学者エリザベス・ダンは


実験の参加者にお金を渡し、使い方を「自分用」か「他人用」にわけたところ


他人のためにお金を使った人の方が、幸福度が高かった


という結果を発表した


これは神経科学的にも裏付ける根拠がある


他人にお金を与える時、脳の報酬系(腹側線条体)が活性化することが研究でわかっている


すなわち



他者に与えること自体が報酬であり


他者に与えることは、自分の幸福につながる


のである


世界三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)にも同様の事例が見られる


キリスト教の什一献金、イスラム教のザカート(喜捨)、仏教の喜捨はどれも他者に施す(お金を渡す)行為である


これらの行為は、科学的にも幸福感を増し、共同体の絆を深める制度としてうまく機能している



戦略的おごり


私は、自分よりもお小遣いが多い人や、頭のいい人などに積極的におごるようにしている


こちらが最初におごると、相手はそれに対して恩義を感じてしまい、


私に同様の施しをしなければという考えを持つようになる(返報性の原理)


したがって、最初におごることによって私がお金を使っても、同等の金額のものが多くの場合返ってくる


また、私が過去におごった頭のいい人に「ノート見せて」などというと


その人は私に過去施された恩義を思い出し、快くOKしてくれるのである


また、さらにハードな要求にも応えてくれる可能性が大幅にアップする



以上より、他者にお金を使うことは、自分に使うことよりもはるかに多くの幸福を得ることができる手段なのである




まとめ


お金は持つことではなく、どう使うかで幸福が決まる


そこで初めてお金は真価を発揮する


自分に与えるよりも、他者に与えることこそが


自分自身の幸福を最大化する手段である





あとがき


ご覧いただきありがとうございました!


今回はお金と幸せの関係性について書いてみました


私自身、バイトをしていなく、小遣いも無条件に減額されてしまったため


現在極度の貧困状態に陥ってるわけであります


その時に考えたのが


お金を持っていなくても、もっと幸せになれないだろうかということです


その結論をこの記事に昇華させた次第です


この記事が、読んでくださった皆様の今後の人生に寄与することを願っています


以上ぼっち高校生でした!


最後までご覧いただきありがとうございました!