過去と未来の狭間に
未来あっての今ではないということに薄々気づきつつも、 やはり未来のために生きようとするのが学生ではないか
ヤングカルチャーやカウンターカルチャーなど、大人という自らの未来像に反抗することで自らの存在意義を見出す
それが学生や若者である
マージナルマン(境界人)とはドイツ出身の心理学者レヴィンが言った言葉だが
つまりそれは、子供でも大人でもないその境界部分に位置する人だという意味
子供=過去、大人=未来 だとすれば過去と未来の狭間に位置するのが学生
しかし時は未来へ向かって進んでいくのだから、狭間に置かれた人間は必然的に未来を志向することになる
今を生きようとしない人生は退屈だとはよく言われる話だが
半ば強制的に今ではなく、未来のために生きろと言われる学生の人生は退屈であろうか
社会はこの問いにNOと答える
その解答理由は「青春」 この2文字に凝縮されている
思うに、青春という言葉や概念は、当の学生らから生じたのではなく、過去を振り返った大人たちによって生成されたラベル
足枷なのではないか
若者は「青春」という幻想に囚われ過ぎている
両親は子供の頃の遊びや人間関係などは今振り返ればちっぽけなものだったという
これは正しいと思う
そもそも、「今」は誰にだって存在するし、それは瞬間的で不可逆的なものだ
つまり、誰しも「今しかできないこと」を抱えて生きている
それなのに、学生特に、未成年に、「今しかできないこと」をしろなんて、大人たちがその言葉を述べるのは許されているのか
自分も、彼ら学生たちと同様に、「今しかできないこと」を抱えておきながら
それを諦め、学生たちに「今」を転化し、定められた過去を振り返り、美化する
奇跡という予定調和の世界
少なくとも小中高 まで 1クラス40人? という上限のあるコミュニティに縛られ生活をしていくわけだ
当然、出会いの数にも限界があり、人間関係の質にも限界がある
教師はよく言う
「このクラスメイトで、このクラスでいられることは奇跡だ」と
果たしてそうか?
少なくとも小中までは義務教育で、これに通わない人間はいない
どの地域、どの学校に行こうとも、必ず誰かしらと知り合い、生活を共にすることになる
つまり、教師のいう「奇跡」は憲法と、諸制度によって確立された予定調和の世界だ
そこに奇跡や青春などというロマンチシズムは持ち込まれるべきではない
そのロマンチシズムはあまりに過去を美化し過ぎている
坂道アイドルが巨大産業として成立する理由
坂道アイドルとは、⚪︎期生という年齢の近い数10人の少女たちで構成された閉鎖空間である
選別された結果、そこに立っている彼女らは、偶然同じオーディションを受け、偶然合格しただけの関係なのに
レッスンや合宿などを通じて、「絆」や「奇跡の出会い」というラベルを貼られていく
お気づきだろうか?
この構造は先述した、教師のいう「奇跡」の構造と酷似している
なんなら、その偶像化と言っても過言ではない
彼女たちは一般人(芸能人以外は一般人という選別方法も好きではないが)
だった過去から、「今」を体現するアイドルになり、そして、卒業を迎え大人(未来)になっていく
この構造は学生と同じものを予見させる
なぜ、アイドルは産業として成立するか?
それは、「今」という瞬間的で不可逆的な猶予を自らも抱えているのにも関わらず
それを生きることに疲れ、諦めたファンの存在が大きい
彼ら、その多くは大人だろうが、自分がとっくに失ってしまった、あるいは学生時代に手に入らなかった
彼らが編み出した「青春」というレッテルをアイドルというシステムに転化することによって
擬似的に、自らもその青春を追体験することができる
彼らが、CDを買い、ライブに生き、時に自らの生活が危ぶまれようとも、金をはたくその姿は
「今」から逃避し、彼女らに「青春」を転化し、ノーリスクで(青春の当事者でないから)その恩恵に預かろうという魂胆が透けて見える
そして、これはアイドルだけではない
芸能人、YouTuber、 TikTokerなどのインフルエンサーのように自らの存在をコンテンツとして成立させることを生業とするすべての人間にも該当する
かつて一般人だった過去から、スターという未来に駆け上がっていくその存在はレヴィンの言う「マージナルマン」そのものだ
なぜ近年推し活が急速に発展するのか
それは、推し活が
「今」を生きることに疲弊し、半ばの諦念を抱く人にとって究極のリスクヘッジであり、感情の転化手段だからだ
自分で「今しかできないこと」に挑戦するのは、非常に大きなリスクを孕む
夢を追って失敗したら、生活が破綻するかもしれない、将来の人生が危ぶまれるかもしれない、人を傷つけ、そして自らも傷つくかもしれない
このようなリスクを、インフルエンサーという偶像に十字架のように背負わせ
それにコストを流入することで応援し、偶像が体現する「青春」にあやかる
この構造が推し活の本質である
典型例
他者にリスクを背負わせる構造が現代の生存戦略として体現化した一つの典型例が「恋愛リアリティショー」である
自分の代わりに誰かが恋愛をする
自分は失恋に傷つくことがなく、トキメキだけを享受する
このビジネスには思わず失笑してしまった
ここまで若者はリスクに怯えるようになってしまったかと
恋愛リアリティショーの爆発的ブレイクと、出生率の歴史的低下に何も相関関係がないと言うのは無理があるだろう
リアルな恋愛や結婚、そして出産に挑戦することは、人生においてリスクとコストを孕む行為の典型例だ
人間が1日に使える感情の総量や報酬系には限度がある
画面の外からノーリスクで「恋愛の果実」だけを効率よく摂取できるシステムが完成してしまった以上
わざわざ現実という最も過酷な環境で泥を啜り、傷つくリスクを冒す人の数が減少するのは必然的な帰結だろう
恋愛リアリティーショーの繁栄そのものは問題ではない
それを生んでしまった背景に着目する必要がある
そしてその背景とは、今を生きるリスクを他者に丸投げし、その引き換えにリターンを放棄するという
歪んだリスクヘッジなのだ
最後に
我々は全員「今」という猶予を持っている
また「今しかできないこと」も持っている
他者に全てを委ね、偶像に十字架を背負わせ、ハイリスクで不安定な時代に「救済」を求める
甘い蜜を吸うためにインフルエンサーに「献金」し、リスクは彼らが負う
そもそも、我々は全員がInfluencer(影響を及ぼす人)である
今こそ、人生の主導権を再び握り、「今」を生きるべきだ
「未来」「反抗」「存在」「奇跡」「世界」「選別」「諦念」「偶像」「十字架」「献金」「救済」
奇跡と予定調和
制度が作り上げた予定調和の出会いを教師が「奇跡」と美化するシステム
これは宗教においては「神の教義」に変化する
偶然その教会や寺院に集まり、同じ時代に生を受け、生活を共にしているだけの信者の共同体に対し、聖職者は
「これは神の導きであり、聖なる奇跡である」とラベルを貼る
制度によって保障された予定調和の世界にロマンチシズムという聖性を持ち込んでシステムを強固にする
この手口は教師も聖職者も全く同じである
マージナルマン(境界人)
過去(俗世)を捨て、未来(死後、神の世界、来世)へと向かう狭間に位置する信仰者は境界人そのものである
「未来のために、今という退屈で過酷な時間を耐え忍びなさい」「戒律(ルール)を守りなさい」
という聖職者の声は、「未来のために我慢しろ」「それが青春だ」という大人の声と同じだ
若者が青春という与えられた幻想に囚われるように、信者もまた「来世の救済」という幻想に囚われている」
キリストの死とは
信者たちは自らの重すぎるリスクや恐怖を神や開祖、あるいは「磔になったキリスト」という偶像に転化する
そして自らは安全な場所で、殉教することもなく、お布施や寄付などといったコスト(献金)を流入することで信仰する
それにより偶像が体現する「救済」や「奇跡」という甘い蜜にあやかろうとする
アブラハムの宗教と偶像崇拝
アブラハムの宗教(=ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が偶像崇拝を禁止する理由
それは 「ノーリスクで甘い蜜を吸われたくないから」である
もし神がに見える偶像としてそこに存在してしまったら
人々はその偶像を都合の良い身代わりとして消費し続けるだろう
自分の今を生きるリスクをその偶像(idol)に全て丸投げし
形式的な祈りなどの最低限のコストで「安心」や「救済」という甘い蜜を得ようとする
これが偶像(idol)のもたらす帰結なのである
唯一神が神を不可視なものとしたのは、信者自身が今を生きる当時者なのであって、リスクを偶像(idol)に転化してはいけない
という考えがあったからかもしれない
偶像崇拝の禁止とは、人々から安全地帯を没収し、強制的に自分の人生の主導権を握らせるためのシステム設計なのである
キリスト教というバグ
ユダヤ教やイスラム教が厳格に偶像崇拝を禁止しているのにも関わらず、キリスト教は
イエス=キリスト という偶像(idol)を歴史に登場させてしまった
信者はキリストの死というドラマにコスト(信仰、寄付)を流入することで
全人類の罪という大きすぎるリスク(十字架)をイエス1人に背負わせたのである
人間は今を生きる主体性を恐れるとき、そのリスクを偶像(idol)に転化し
物語と共同体を通じて救済を得ようとする
この構造は、宗教、青春、推し活、すべてに共通する