はじめに


この記事は


『何故私たちは選挙に行けと言われるのか』日本国憲法第12条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」ここでいう「国民の不断の努力」とは、主…リンクameblo.jp


の補足(蛇足)記事である





日本国憲法第11条



「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」



11条は、人権は国家が付与しているものではないことを示している


我々の有する基本的人権とは、生得的なものである


11条はその事実を確認、宣言しているに過ぎない






日本国憲法第12条



「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」



しばしば誤解されがちだが、12条は国民に対して、不断の努力を強制するような意図はない


「国家権力は、それに対する監視がなければ、その性質上必ず暴走する」


という重大な前提を示し、だからこそ、国民の不断の努力が必要なのだという表明なのである





日本国憲法第13条



「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」



13条は、それに対する監視がなければ、その性質上将来的に必ず暴走する国家権力に対して


公共の福祉に反しない限り、個人の基本的人権を最大限尊重するようにという命令である


ここでいう命令の主体とは、憲法の実質的な発布主体である我々日本国民である





憲法の適用範囲について



憲法は本質的に国家に適用される規範であり、実質的な発布者たる我々日本国民が名宛人を国家として設定しているものである


従って、私人間関係は憲法の適用範囲外とするのが「国家行為説(伝統的通説)」であるが、現在の通説はこれとは異なるらしい


企業による思想、表現の抑圧や言論排除など、国家並みの影響力を持つ私人(企業)による人権侵害も生じうるため


「国家だけを縛ればいいのか?」という疑問が生じる


そこで現れた現在の通説が「間接適用説」である


この説の論理は以下の通りである



憲法は直接には国家のみを拘束するが、国家は民法、労働法などを通じて私人間関係を調整する義務を負う


その際、憲法の価値(人権)が解釈指針として間接的に用いられる


だから憲法は「間接適用」されているのである



この論理に私は疑義を唱えたい


確かに憲法は人権に関する記述はあるが(11条など)それはあくまで、我々が生得的に保持している人権を再確認しているだけであって


仮に憲法に記述されていなくとも、我々は人である時点で、人権を有している


そのため、国家が私人間関係を調整する際に憲法を解釈指針としているとあるが


その必要性は皆無なのである


従って間接適用する必要性も皆無であり


故に、憲法の適用対象は唯一国家だけなのである

日本国憲法第12条 



「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」



ここでいう「国民の不断の努力」とは、主権者として、国家の権力行使を日常的に理解、評価、可視化し


必要最低限度の参加によってそれを統制し続ける実践のことである


この代表例は選挙であろう


国民は「不断の努力」により、自身の自由及び権利を保持することが可能となる


では不断の努力(実践)を行わないものはどうなるのか。彼の自由及び権利は剥奪されるのか


答えは断じて否である



日本国憲法第11条 



「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」



これが意味するものは何か


11条により権利が保障されているのなら、「国民の不断の努力」は不必要なのではないかと言う疑問が生じるであろう


確かに11条は、我々の基本的人権を保障している。ただ、その保障は「形式的な」ものである


「実質的な」権利の保障まではされていないことを見過ごしてはならない


11条は「基本的人権の侵害」が国家権力により行われることを想定してそれを違憲と評価する規範に過ぎないのである


だから11条の保障とはいかなる状況においても基本的人権は尊重されるという「形式的な」ものに過ぎない


ここで注目したいのが、「基本的人権の侵害」が国家権力により行われると言うことを想定している点である


これは



「国家権力は、それに対する監視がなければ、その性質上必ず暴走する」



という重大な事実を前提としている


この前提により、三権分立や、司法審査制が設けられている


これこそが、立憲主義の根幹なのである


国家権力とは本質的に、我々に基本的人権を付与する主体ではなく、むしろ、我々のそれを侵害しうる存在なのである


我々の基本的人権を擁護するものは、国家権力を統制する憲法や、個々の法律、そして我々の不断の努力なのである


何故、我々は政治に関心を持ち、投票をするべきだと言われなければならないのだろうか


その理由は、


それが我々の実質的な基本的人権を自ら防衛できる唯一の手段だからである









あとがき


ご覧いただきありがとうございました


ぼっち高校生です!


今回は選挙シーズンということもあり、選挙について書いてみました


私はまだ投票権すら持たないので、どうしようもないのですが


有権者の一票が、将来的な国の繁栄につながることを祈るばかりです



今回はアメブロの制限により記事を書き切れませんでした


補足程度に記すつもりだったのですが、原稿も書いてしまったこともあり


何も投稿しないのも落ち着かないので


「憲法の適用範囲について」という題名で投稿したいと思います


最後までご覧いただきありがとうございました!



追記


選挙のテーマソングは欅坂46の「サイレントマジョリティー」がいいと思います


聴いてみてください

他者との比較が生む悲劇


絶対的な基準が存在しない事象に関して、人は比較を通じて自らの状態を判断する


幸福もまたその一例である


社会一般において、「幸福」の厳密な定義は存在しない


しかしながら、我々は誰しも「幸福の理想像」は持っている


この理想像は、経済力、社会的地位、人生経験など、さまざまな観点において


自らが意識的、或いは、無意識的に設定した比較対象との対比を通じて生成される


即ち、幸福とは価値的・序列的比較に依存した評価に過ぎないのである






不幸は自らが作り出す虚構である


では、比較対象が極限まで消え去った状態を想定してみよう


ホッブスのいう「自然状態」において、ただ1人の人間が存在すると仮定する


ただし彼は、社会的知識や他者概念を一切持たず


生物として原初的に備わる感覚機能のみを有しているものとする


このような状況下で、彼は一瞬でも自身を「不幸」と評価するだろうか


答えは否である


ただし、ここで重要なのは、「否定的な主観状態が一切生じない」わけではないことだ


感覚を有する以上、彼は空腹や寒さ、痛みといった不快刺激を経験する


これらは先ほどより不快であるという差異検出を通じて認識される


しかしこの段階で生じているのは「不幸」ではなく


生命を維持するためのフィードバックに過ぎない


換言すれば、空腹や寒さなどにより原初的な欲求が満たされていない時


人は「不幸」ではなく、「反省(フィードバック)」を感じるだけなのだ


例えば、空腹状態はやがて生命を脅かす危険につながるため


脳は「この状態は好ましくない」と判断し、次の行動を修正する


この過程は「刺激-反応-学習」という単なる因果的メカニズムに基づくものであり


そこに「不幸」「人生は辛い」などの否定的な評価が生まれるわけではない


仮に、その時、「私は不幸だ」などと考えているのだとすれば


それは「自らが作り出した虚構」に過ぎない


あなたは「幸福」を奪われているわけではない






火星生活実験


この点を理解する上で、火星生活実験(隔離居住実験)は非常に示唆的である


閉鎖環境下では、地球上で有効だった社会的ステータス、例えば、高級車、居住空間、肩書きなどは全て機能を失う


比較すべき外部の他者が遮断されることで、社会的・序列的比較に基づく価値判断


即ち「幸福判断」はやがて行われなくなるという


その結果、被験者の関心は、「幸福」「成功」といったものから、睡眠、健康、協調、資源管理といった


生命維持に直結する領域へと収束するという


これは、比較対象が消失すれば、幸福、不幸という価値判断が行われなくなることを示している


従って、人間にとって幸福や不幸は本質的属性ではない


人間が生得的に備えているのは、生命維持に必要なことだけであり


幸福判断に用いられる価値的・序列的比較は、他者や社会構造により作り出された「空虚な評価結果」である






対策


では具体的に幸福、不幸といった二分法的評価から逃れるにはどうすればいいか


人間は、比較を行っている自己そのものを捉える能力、いわゆる、メタ認知能力を有している


この機能により、我々は、他者との比較をただ黙って受け入れるのではなく、


それを保留することが可能なのである






ショウペンハウアー否定


ショウペンハウアーは欲求が満たされない状態を「苦悩」と呼び


人生を「苦悩と退屈の連続」と主張した


ここで彼の言う欲求とは、社会的ステータスだけではなく、生存を含むあらゆる衝動を貫く意志である


しかしながら、現代的観点から見れば、全ての欲求を同じ意志として捉えることは再検討の余地がある


睡眠や飲食などの原初的欲求の不充足が導くのは、精神的価値判断としての苦悩(不幸)というより


生命維持機能が発する単なる警告である


「人生は苦悩と退屈の連続である」というショウペンハウアーの主張は


欲求・比較・価値判断の水準を区別せず、それぞれを同一のものとして捉えている点で論理的に誤謬なのである






総括


苦悩が問題となるのは、「私は他者より劣っている」や「理想像には程遠い」という評価を自身へ下す時である


これらは自分を「不幸」にする源泉である


しかしながら、先述した「メタ認知」により


我々は「不幸」を感じなくてもよくなる、少なくともその手段は持ち合わせている


「不幸」は回避可能で、一つの解釈に過ぎないのである




2025年12月31日


今年中にどうしても終えたいタスクを抱えながら私は品川駅の新幹線プラットホームに立っていた


それは



アニメの聖地巡礼である!!!



そのアニメとは「ラブライブ!サンシャイン!」である




どんな話なのかは各自見て確認してほしいが


めちゃめちゃ簡単に言うと


「今を輝こう」と言う話である



昔から勉強など、将来のことばかり見据えて行動してきた私にとって


「今を生きる」という発想は存在しなかった


「未来に後悔しないための今」を生きてきた私は見事にこのアニメに引き摺り込まれた



「今を楽しむ」という発想は私にとって衝撃的だった





アニメについて詳しくこの記事で語るつもりはない


内容は自分の目で確かめてほしい



アニメの内容以上に衝撃的だったのは、このアニメの「聖地」である


静岡県沼津市だった



アメブロは1記事あたり15枚しか写真が投稿できない仕様なので、


この記事ではアニメ聖地巡礼の様子をまとめる


次の記事では、巡礼を通じて、地方創生に必要な公式(formula)を考えてみる






品川駅から沼津駅の一個手前の三島駅まで新幹線で35分





東海道線に乗り換え


電車で5分で沼津駅に到着!




ここでまず衝撃を受けることになる





JR 沼津駅前










これがJR沼津駅である!


なんと、「ラブライブ!サンシャイン!」のバナーが展示されているではないか!



ご覧の通り、このアニメは沼津市と切っても切り離せない関係にありそうだ



そして私はこの仮説の確証をさらに得ていくこととなる












こちらは沼津市の商店街である


ご覧の通り「ラブライブ!サンシャイン!」のバナーが散見される


ここまでアニメと結びついた都市は他にあっただろうか いやない (反語)












こちらは「沼津仲見世商店街」の様子である


みなさま言いたいことはお分かりだと思う




今掲載した写真はどれも沼津駅周辺の様子なのだが、実は


「ラブライブ!サンシャイン!」にとっては沼津駅前は外堀のようなものなのである


沼津駅からバスで40分ほど


さらに南にあたる「内浦地区」


ここが作品の本丸だ






内浦地区






なんといっても富士山が近い


富士山は5号目まで車で登ったことはあるのだが


内浦地区の方がはるかに富士山を身直に感じられる








アニメの世界と現実の世界が繋がっていると錯覚するほどの近似である



次記事へ続く.....


2026年初投稿です


本年もよろしくお願いします


今現在高2の私は、今年の4月から高3となり


大学受験がいよいよ迫ってきています





大学受験について


私は平生より「受験で点を取るための勉強」ではなく「科目に対する本質的な理解」を心がけてきました


なぜなら、受験で点を取るための勉強目的と手段が反転していると思うからです


目先の点数に固執するあまり、勉強の本来的な目標を見失っている学生が多々いると思います


それは学生の保護者や世間も然りです


勉強とは本来高校や大学に合格するための手段ではないはずです


なぜなら、学校で習う科目のほとんどが社会で不必要なものだからです


少なくとも私は、社会で「因数分解」が使われているところを見たことはありません


ある科目の習得や理解を通じて養われる「力」などに価値があると思います


従って、勉強によって得られた合格は副産物であり


その過程で研鑽された「論理的思考力」や「課題解決の姿勢」こそが


今後の私の人生に寄与するものであると確信しています


だから私は予備校には通わないし、あえて少し遠回りをした勉強法を実践したりしています


コスパやテクニックが重視される今こそ、物事に対する愚直な洞察が不可欠であると思います


少なくとも、AIの登場により既存の知識の価値は指数関数的に陳腐化することは明白です


そのような時代にこそ、本質的な理解や、分野横断的な教養に価値が見出されるのではないでしょうか


予備校の言う通りに勉強して、立派な大学の門をくぐる学生が何人もいるかもしれない


しかし、彼らが三年間を通じて得た学習の成果がどれほど彼らの人生に寄与するでしょうか


私の周囲が大学合格のために効率やテクニックを重視するようになってくることは目に見えています


そんな中でも私は、「本質的な理解」を重視し続けたい


自分の軸がぶれないよう真摯に日々の学業に取り組んでいきたいと思っています




専攻どうする?


専攻について


今のところは、法学部政治学科を希望しています


さらに厳密に言えば、「政治思想」「安全保障」「憲法解釈」「政治哲学」に興味を持っています


改めて学問の名前だけ見ると厳めしいものの羅列に思えますね


なぜ自分がこういった分野に興味を持ったのか、心当たりがあるのは


幼少期からの読書経験です


昔から、歴史、思想、哲学といった本を読んできて、事実の背景や、前提を疑う力


様々な分野を結びつけて推測する力などが無意識的に養われてきたのだと思います


また、新聞やニュースで、政治や国際関係に触れてきたことが起因しているのではないかと思っています




今後


このブログは受験期間もできるだけ時間を作って更新し続けたいと思っています


一番最初の記事でも書いたように、私はブログを通じて自分の思考を言語化することに価値の比重を置いています




2026年は忙しい年になると思います


また、人生で一番成長を実感できる年にしたいと思っています


いよい勝負の一年が始まります


本年もこのブログをよろしくお願いいたします





追記 2025年最後のサンセット



前提 


私はいかなる宗教にも属していない


また他の死生観、宗教を否定するつもりもない




はじめに


死は誰にでも訪れるものであって決して悲観するべきものではない


その人が「生きていた」ことを証明する手段として最も強力なものは何か


それは、その人が「死ぬこと」である


死によって、生きていたことを証明できる


死の以前の状態は「生」以外の何ものでもないからである




墓参りが表す死の意味


親族の墓、有名な戦国武将の墓、もしくは見知らぬ人の墓


我々が墓前に立った時共通して行う行為がある


「合掌」

※合掌は日本や仏教圏でのみ見られる特徴だが、欧米圏でも黙祷や十字を切る行為など、同様の意義を持つ行為は在る


我々は名前を知っていたり、生前親交があった親族だけでなく


生きている時代が全く異なる戦国武将や


見たことも聞いたことも無い、いわば自分にとって無名の人の墓前でも


合掌を行う


「合掌」をすることで墓の中で眠っている「何か」

※この「何か」は個人の信仰する宗教等によって変動するだろう


に対して


「敬意と尊崇の念を表している」


のである


なぜ、墓に眠っている人に対して「敬意と尊崇」を抱くのだろうか


※仮に抱いていなかったとしても、我々は合掌という行為をしているのだから

少なくともその重要性は認識しているはずである



我々が死者に対して敬意と尊崇の念を表するのは


「彼ら(死者)が我々(生者)が未到達である「死」という領域に到達したという意味で、我々より先行しているからである」


さらに厳密に言えば


「我々は死者の普遍性に対して敬意と尊崇を示している」のである


彼らは皆、「人間の普遍的な運命」を体現している


彼らの有り様は、「人間であることの終着点」を示している







ガーナの例から見る死の意味


ガーナという国の一部地域では、死を「人生の達成」「新たな領域への進出」などと、喜ばしいこととしてみなす


そのため、専門のパフォーマーが棺を担いでダンスを披露する


※これが「棺桶ダンス」としてネット上に散見されることは若い世代を中心に周知のことである





「死」とは「人生の完成」や「未知の領域への進出」である


短命だった人も、天寿を全うした人も、死によって人生が完成するという意味ではなんら変わりない


つまり、両者とも、同じ一つの人生を生きていたことになんら変わりはない


つまり両者は何も変わらないのである






善の対象


我々は生前、他者の目や社会的な評判を気にして生きている


しかし、人生という物語の最後に、その全貌をたった1人で、最も厳密に見届ける存在がいる


それは「自分自身」である


もちろん「死」を看取ってくれる人はいるかもしれない


死後の自分を語ってくれる人もいるかもしれない


しかし、彼らが知り、語ることのできる部分は「死すべき人」のほんの表面的部分にすぎない


厳密に死すべき人の人生を把握することができるのは「死すべき人自身」に他ならない


自分とは、「自分にとって最大の理解者であり、かつ最後の評価者」である


最後の審判を下すのは神でも、天使でも、仏でもない


自分自身なのである


ならば、我々は生前何を目指して生きるべきか


評価者で最終審判者たる自分自身が


人生を「価値あるものだった」「意味あるものだった」


と静かにうなづけるように行為すること


それが本来的に、人の生きる目的なのである


自分が正しいと信じること、自分にとって善いと思うことを積み重ねていく


究極的な「善」は必然的に「社会にとっての善」に帰結する

※利己的な善ではなく、普遍的な善


すなわち、「自分にとっての善」=「社会にとっての善」となる


それはなぜか


社会を構成しているのは、自分と同じ人間だからである


自分と同じ、一つの人生を生きている他者が社会を構成しているからである


※歩んでいる人生が同じなのではなく、人生というものを歩んでいるという意味で自己と他者は同一である


どれだけ社会に貢献したか、どれだけ他人に貢献したか


これらの行動はその瞬間は決して自分のためにはならないし、利益を得られるわけではない

※利益を求めるのがそもそも誤りであるが


しかし、その行動は、死にゆく自分自身を肯定することのできる立派な根拠となる


自分を必要としている人の役に立ってあげる、可能ならば、自分を必要としていない人にも貢献する


こういった行動は結局、自分に対する貢献なのである





総じて、死とは人生の達成であり、未知なる領域への進出である


したがって、死を不用意に恐れず、死者に対して敬意と尊崇の念を抱くことこそ


死者にとっても、また、やがて死すべき我々にとっても適切な態度なのである



お金の本質


貨幣経済において、「お金」とは


物やサービスと交換できる「アイテム」にすぎない


お金そのものに価値があるのではなく


お金と交換することによって得られる「物やサービス」に価値がある


さらに厳密に言えば


「物やサービスによって得られる幸福に価値がある」


だからこそ、「お金」にこだわるのではなく


お金を物やサービスと引き換えて得られる「幸福」にこだわってほしい


預金残高がいくら増えても、持ってる株の株価がいくら上がっても


あなたは幸せにはなれない


これに気づかない人は、いくら裕福でも幸せにはなれない



預金残高が多くても、満足度の低い生活を送っている人は、幸福にはなり得ないのである


節約のために、安価で、栄養価の低い食べ物だけ食べる人


節約のために、電気をつけずにスマホを見る人


節約のために、季節外れでボロボロの服をいつまでも着ている人


こういう人は結局、健康という1番の財産を失い、機会費用も失い


最終的に幸福をも失うことになる





消費行動の変化〜所有から利用へ〜


物を所有するという行為はもはや時代遅れになりつつある


現在は物を所有することよりも、利用することに消費行動の主軸が置かれており


サブスクリプションサービスの台頭などがこれを裏付ける根拠となる


この変化は、消費行動において


物を所有する優越感よりも、物を利用する「満足感」への変化を表している


高級車や、ブランド物を所有することが一種のステータスだった時代はもう終わった

※これらにも実はまだ価値が残されているという話は後述する




生活は足し算より引き算


物の所有に固執することはもうやめた方がいい


先述したとおり、それは時代遅れだし、物は墓場に持っていけない


物から脱却するためには物に対する根本的な認識を変える必要がある


物はあればあるほど幸せになれると勘違いしている人が少なくない


これは前時代的、西洋的価値観で、専門的にいうと物質主義(マテアリズム)という


次の写真を見てほしい


龍安寺の石庭 修学旅行で撮影



ヴェルサイユ宮殿の庭園


この2枚の写真の比較を通じて、西洋的価値観と東洋的価値観の違いを感じ取ってほしい


両者は土地の規模感が違うため、純粋な比較は難しいと思うが、あえていうなら両者の違いは


「足し算」か「引き算」か


である


ヴェルサイユ宮殿が足し算、龍安寺が引き算である


ヴェルサイユ宮殿は噴水や木々など、豪華さを足し算することで優越感を示している


龍安寺の石庭は、物を省くことにより生まれた余白と静けさによって心の幸福を示している


こういう比較ができるのではないか


日本人は侘び寂びや禅など「引き算」によって幸福を感じてきた


結局、物を足せば幸せになるというのは、東洋人の我々には無縁な話なのだ


それどころかこの神話は西洋人にとっても無縁だと実験が示している


アメリカの心理学者、バリー・シュワルツは「選択肢のパラドックス」を提唱し


「選択肢が多すぎると人はかえって不幸になる」


と指摘している


物を多く買い、多く所有することで意図的に選択肢を増やす


それによって人は幸せになるどころか、不幸になるのである




例外


以前のべた「高級車」や「ブランド物」は最高の価値がある


これらはただ所有できるだけでなく「資産」として相続することができる


フランスの経済学者トマ・ピケティの「21世紀の資本」より


r(資本収益率)>g(経済成長率)


簡単に言えば、


我々が持っている資本の価値は、今後も上昇していく可能性がある


自分の跡を継ぐ将来世代のために、資産となる物を幾らか買い残すことは有益かもしれない




幸せになりたいなら人に奢ろう


一見するとこの主張は矛盾を孕んでいるように見えるが、意外とそうではない


カナダの心理学者エリザベス・ダンは


実験の参加者にお金を渡し、使い方を「自分用」か「他人用」にわけたところ


他人のためにお金を使った人の方が、幸福度が高かった


という結果を発表した


これは神経科学的にも裏付ける根拠がある


他人にお金を与える時、脳の報酬系(腹側線条体)が活性化することが研究でわかっている


すなわち



他者に与えること自体が報酬であり


他者に与えることは、自分の幸福につながる


のである


世界三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)にも同様の事例が見られる


キリスト教の什一献金、イスラム教のザカート(喜捨)、仏教の喜捨はどれも他者に施す(お金を渡す)行為である


これらの行為は、科学的にも幸福感を増し、共同体の絆を深める制度としてうまく機能している



戦略的おごり


私は、自分よりもお小遣いが多い人や、頭のいい人などに積極的におごるようにしている


こちらが最初におごると、相手はそれに対して恩義を感じてしまい、


私に同様の施しをしなければという考えを持つようになる(返報性の原理)


したがって、最初におごることによって私がお金を使っても、同等の金額のものが多くの場合返ってくる


また、私が過去におごった頭のいい人に「ノート見せて」などというと


その人は私に過去施された恩義を思い出し、快くOKしてくれるのである


また、さらにハードな要求にも応えてくれる可能性が大幅にアップする



以上より、他者にお金を使うことは、自分に使うことよりもはるかに多くの幸福を得ることができる手段なのである




まとめ


お金は持つことではなく、どう使うかで幸福が決まる


そこで初めてお金は真価を発揮する


自分に与えるよりも、他者に与えることこそが


自分自身の幸福を最大化する手段である





あとがき


ご覧いただきありがとうございました!


今回はお金と幸せの関係性について書いてみました


私自身、バイトをしていなく、小遣いも無条件に減額されてしまったため


現在極度の貧困状態に陥ってるわけであります


その時に考えたのが


お金を持っていなくても、もっと幸せになれないだろうかということです


その結論をこの記事に昇華させた次第です


この記事が、読んでくださった皆様の今後の人生に寄与することを願っています


以上ぼっち高校生でした!


最後までご覧いただきありがとうございました!


はじめに



こちらの記事にて


「(先週の)金曜日くらいには記事を更新する」


といった大口を叩いた挙句


何も記事を更新していないことについて謝罪します


_| ̄|○



考えてみれば、テスト明けの高校生が机に座って長い長い文章を書くなんてことは


なかなかできないなことだなと思いました、、、


なぜ更新宣言なんてしてしまったのか悔やまれます



真面目な話


私はブログとしてネットに公開する以上


ある程度の記事の信ぴょう性と、ある程度の記事の質は担保されているべきだと考えていて


あまりにも杜撰で、期限を守るための文章なんざに価値はないなと考えました


文章というのは、期限を守るために書くものじゃなくて


アイデアをひらめいた時に書くべき


だなと思います


文章の更新宣言は重い足枷になると実感しました、、、


これからも記事は不定期更新でいくつもりなので


記事が更新された際はぜひ読んでくださると嬉しいです




近況報告


といっても以前も近況報告をしてるので大した変化はありませんが、、、


強いて言えば


風邪を引いた


ことでしょうか


厳密に言えば「急性副鼻腔炎」


簡単に言えば「鼻詰まり」です


これには思い当たる節があります


テストが終わったついでに近所の温泉に行き


外風呂で1時間の耐久レースを行ったことです


外気の寒さとお湯の温かさが妙に身に沁みて、非常に心地よく


気づいたら1時間も浪費していました


その結果、とてつもない鼻水と、喉の痛み、鼻詰まりによる頭痛に悩まされました


⚠️冬場の外風呂には注意⚠️


これだけでも覚えて帰ってください




進路について


早いものでもう12月


高校2年生の12月


これは


本格的に進路を決める時期である


ことを意味します


とりあえず私は大学に進学しようと思います


理由は単純でやりたいことが見つからないから


やりたいことがないなら就職しろよという考えの人もいらっしゃると思いますが


私は、大学はやりたいことを見つけるには最適な場所だと考えていて


その理由は主に


・4年間という時間が手に入る

・大学は、日本中から人が集まる

・大卒という肩書きが一般的になりつつある


上記の三つです



大学生には就職するまで約4年間の猶予が与えられます

(留年しなければ)


その間にやりたいこと決めることができる


社会に出たい人は就職、まだまだ勉強したい人は大学院や留学など


4年間という期間を通じて自分を見つめ直し、自分にとっての最適解を探求できる


大学の学費というのは4年間という時間の価格に等しいと思います


私立文系大学の4年間の学費は平均約400万と言われていて


1年間約100万、1ヶ月約8.3万、1日約3000円


といったところでしょうか


1日あたり2~3時間バイトすれば良いという計算になりますね


社会人の皆さんは


「自由な1年間を100万円で売ります」と言われたら買うでしょうか


私なら買う一択だと思います




また、大学、特に有名大学は日本中、世界中から人が集まってきます


価値観、人種、宗教、文化の相違を肌で感じることは確実に有意義です


学問意外にも、今後の人生で役に立つことが学べるのかなと思います


私は、他者の考えに触れるというのは大事だと思っていて


なぜなら、価値観や思考が硬直するのを防ぐことができるからです


社会を多様な視点から俯瞰的に見ることができるというのは


人生においてもメリットなのかなと思います




また、大卒という肩書きは年々一般的になりつつあります


求人の約4割が応募要件に「大卒以上」を設定しているというのが求人サイトの調査で分かったそうです


これを考慮すると、高卒で働き始めるより、大学を経験してから就職という形の方が良いのかなと思います


ほとんどの高校生は、高校を卒業した程度の未熟な価値観で簡単に職は決められないと思うし


必ずしも選択が最適解になるとは限らないからです


もちろん、家業を継ぐとか、本当にやりたいことがあるというのであれば否定はできないのですが、、、


ただ、そういった人々は棺桶に入るまで、同じ職を全うできるのでしょうか


職を変えたくなった時の保険として、「大卒」


という肩書きは強いように思います



以上の理由から、私は大学進学を当面の目標とし日々励んでいく所存です



なんとなくですが将来のビジョンが固まりつつあるので


いつか紹介できればなと思います





寒くなってきたので皆様お身体に気をつけて


ご覧いただきありがとうございました!

いつもご覧いただきありがとうございます!


ぼっち高校生です!


前回投稿した



↑の記事に関して


自分史上最高のアクセス数を獲得できたことを報告します


本当にありがとうございます!


当初は自分の考えをまとめるためにブログを始めましたが


始めるとやはりアクセス数などの反響は気になってしまいますね、、、




拙い文章かつ、高校生の未熟な視点にも関わらず


多くの方に目を通していただけて感謝でいっぱいです






近況報告


現在私は定期テスト期間で、


次の記事の更新は来週の金曜あたりを予定しています


先ほど述べた記事内でも触れているのですが


次の記事のテーマは


「お金にとらわれる人が幸せになれない理由」


にしようと思っています


アクセスしてくださる全ての人に関係するであろうテーマです


私は、社会に出たことがなく、経験知が当然不足しています


学ぶことしか経験していないので


経験が物をいうであろう社会人の読者様の視点とは異なる見解を提供できるかなと思っています


また、このブログの多くのアクセス数を占めている、10代の方々に


同年代の目線から見る、新たな価値観を提示できるかなと思っています



いずれにせよ私は定期テストという強大な敵を打ち倒さなければなりません、、、


勉強頑張ります!




テスト勉強中の一枚↓


勉強している感があっていいね


先日、友人から、短期の語学留学に行くという話を聞いた


彼は国際系の学部を志していて、高校在学中に留学に行くというのは非常に理にかなっている


同じく国際系(国際政治)を志している私も


「留学行きてぇな〜」


と幾度となく思ったことだろうか


友人曰く、留学の最低条件は「語学力」だそうで


英検だとか、TOEICだとかで、ある程度のスコアがなければ行けないらしい


しかし、私は留学の最低条件は


「「「親の経済力」」」


だと考えた


そのため、近所のファミレスで


「留学に行きたいのに行けない。これは個人の問題か社会の問題か。」


のような長々とした議論をテスト期間中におこなったわけである


親の収入と機会不平等


親の収入が低ければ、塾にも通えないし、当然留学にも行けない


食費を稼ぐために、バイトをしている学生も少なくないだろう


家が大して裕福ではない私は


「学生」


という言葉を聞くと


経済的に苦しくて、無料や低額の場所を見つけて頑張って勉強している姿を連想する


彼らの家はもちろん広くなくて、決して綺麗ではない


家庭環境は良かったり悪かったり様々だ


しかし、世間には確実に「裕福な学生」も存在する


彼らはなぜ裕福なのか


答えは単純で、親の収入が高いからだ。


親の収入が高ければ、塾や私立高校、留学など


貧困層に比べて良い機会を得られることは猿でもわかる


いわゆる、「裕福な学生」からすれば


私立高校に通ったり、留学に行ったりすることは当たり前なのかもしれないが


私のような「学生」からすれば


彼らが得られている機会は、とても価値あるものに感じるし


裕福な学生はもっと親に感謝するべきだと思う


裕福学生と、学生における機会不平等を


間接差別的構造と呼称することにする


構造的課題


この間接差別的構造が生じる原因は明白で


「「「国の支援体制が十分ではないから」」」


私は、根拠なき政治家批判とか体制批判をしたいわけではない


なぜなら我々国民より、政治家や官僚は確実に優秀だから


ただ、この問題に関してはこのように言わざるを得ない




89179 vs 336708


この数字は


日本人の海外留学者数 vs 日本が受け入れている外国人留学生総数


実に、1 : 3.8


の差である


日本人1人が留学するにあたり、外国人約4人が日本に留学しに来ている


※具体的数字より、規模感を理解してほしい




原因


主な原因は以下の通り


・日本の大学が受け入れる側にシフトしているから(少子化)

・日本には留学生を30万人受け入れる計画があるから(達成済み)

・日本→海外の経済的負担が重いから

・制度上、受け入れ留学生に予算がつきやすいから


もちろん赤線部が最も重要


これについて解説する


政策担当者にとって最も重要なのは


「数字で結果を示すこと」


日本から海外に行った留学生がどれだけ日本社会に貢献したかは数えられない


しかし、海外から日本に来た留学生の場合


彼らがどれだけ日本の大学に在籍しているかがその大学の国際性指標になるし、


QSとかの世界大学ランキングでの評価も上がる


また、研究者候補として価値が高い(と言われている)


このように政策立案者からして


日本人を留学させるよりも、留学生を受け入れさせた方が彼らの評価につながる


という現状がある。


また、留学生を受け入れた場合


彼らは日本で生活するのだから


生活費を落としていってくれるし、学費も日本の大学に支払ってくれる


換言すれば、日本は


教育という投資よりも、消費という利益を優先してしまっている



まとめると


日本人を留学させるより、留学生を受け入れた方が、大学も国も得をするという考え方がまかり通っている




構造的矛盾


これまで述べてきた構造的原因は、大きな矛盾を孕んでいる


日本人あっての日本国家なのに


日本国家が得しようとして、日本人(留学したい人)が損を被っている


なかなかに愚かな話である


私はこれを投資家現象と呼称したい


お金というのは人生の目的を達成するツールなのに


投資家は、彼らの人生をお金を稼ぐことに使ってしまっている


人生の目的がお金になることは、お金の囚人になるのと同義なのである


わかりやすくいうと、


手段と目的が逆転してしまっているということである


※これについては「お金に囚われる限り幸せにはなれない」というテーマでまた書きたい



総括


なぜ日本人は留学しづらく、日本が受け入れる留学生の数は増え続けるのか


その構造的課題を分析していた


結果的に、この問題の原因は、国であることがわかった


我々は、この問題について声を大にして改善を求めるべきである





あとがき


ここまでご覧いただきありがとうございました


ぼっち高校生です


今回は、留学というテーマで書いてみました


このブログをご覧になっている方の年代は10代から70代までと


広い範囲に渡りますが


中でも多いのが10代の方々ということで


身近なテーマだったのではないでしょうか


テスト期間中に私がこのような長い記事を書いたのも、やはり


「留学」


に対して、何か強くて漠然とした憧れを持っているからなのだなと思います


またそれは、多くの10代の皆さんにとっても同じことだと思います


この記事が、読者の方々に少しでも役に立てば幸いです


以上です


ご覧いただきありがとうございました!