エルンスト・ユンガー著 川合全弘訳「労働者 支配と形態」月曜社刊pp.50-51より抜 | 鶴木次郎のブログ

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『形態を見ることは、ある存在をその生の全体的で統一的な充溢において認識することである限り、革命的な行為である。道徳的美的評価も学問的評価も超えたところで起こるという点に、この出来事の大いなる優越性が存在する。

 

このような領域でまず重要なことは、あるものが善か悪か、美か醜か、誤か正かということでなく、それがいかなる形態に属するのかということである。これとともに、十九世紀に正義という語の下に理解されていたもの全てと全く相容れないような仕方で、責任の範囲が拡大する。

 

すなわち個々人がどの形態に属するのかということが、彼の身分証明となったり、また罪となったりするのである。このことが認識され承認される瞬間に、非常に人工的となった生が自らを保護するために設けた、あの恐ろしく複雑な装置は崩壊する。

 

なぜなら、我々がこの研究の冒頭で「野生の無垢」と名づけたあの態度は、もはやそれを必要としないからである。これは存在による生の修正であり、生の新たないっそう大きな可能性を認識する者は、徹底的に遂行されるこの修正を歓迎する。

 

新たないっそう大胆な生を準備するための手段の一つは、解き放たれて独断的となった精神の価値基準を否定すること、市民時代に人間に対して行われてきた教育作業を破壊することにある。このことが根本から遂行されるためには、そしてこのことが世界を百五十年ほど前に逆戻りさせる一種の反動として遂行されないようにするためには、この学校を最後まで通過してしまうことが必要である。

 

いまや重要なことは、次のような捨て身の確信を持つ類いの人間を教育することである。

 

すなわち抽象的な正義や自由な研究や芸術家的良心などの主張は、市民的自由の世界内部で一般に認められうる審級よりももっと高い審級の法廷で自らを証明しなければならない、という確信がそれである。

 

このことがまず思考において行われるとするならば、それは、敵とは敵の得意分野で戦うべきである、という理由からである。生に対する精神の反逆への最善の応答は、精神に対する精神の反逆である。我々の時代を高度かつ残酷に享受するためには、この爆破作業に参加することが不可欠である。』

 

エルンスト・ユンガー