阿久根市の教訓 | 清瀬市議会議員  石川秀樹のブログ

阿久根市の教訓

阿久根市長選は前職の竹原氏が落選した。
西平氏8509票に対し竹原氏7645票で864票の差。リコールの住民投票の差は398票であったから差は開いたものの、根強い竹原人気(というより、“反竹原”に対する住民の不信の強さ)があるからこれほどの接戦になったのだろう。

今朝の読売新聞の解説欄で青山彰久編集委員が以下のように記している。(この色の部分は石川が強調した)

「議会機能を否定して住民投票で市長を解職され、出直し市長選に再立候補した鹿児島県阿久根市の竹原信一氏(51)が落選した。「自分が提案する議案に何でも反対する議会はいらない」。そう語って進めた政治手法は自治体の政策形成のあり方に教訓を残した。
 吹雪の中の投票となった選挙で落選が決まった16日夜、竹原氏は「(既得権を守ろうとする)市職員に負けた」と、嘸然とした表情で敗戦を振り返った。市職員を改革に対する象徴的な抵抗勢力とみなして「市職員の厚遇批判」を展開してきた竹原氏。やがて矛先を議会に向け、地方自治法を無視して条例や予算を議会抜きできめる専決処分を乱発した。
 それでも住民が支持していたのは、地域経済の疲弊で相対的に高くなった職員人件費へのいらだちや、安穏とした議会への不満が強かったからだ。
 そう考えると、この異形の市長は、公務員給与の決め方と議会改革の必要性という、多くの自治体に共通する課題を提起したとみることもできる。
 だが、問題は政策形成の道筋だ。本来、自治体の政策は、情報公開と住民参加を組み込み、多様な意見を調整して立案する必要があろう。だが、ここ数年、竹原氏や名古屋市の河村たかし市長ら劇場政治型の首長は、反対勢力を「自分を妨害する存在」に仕立てる傾向がある。選挙でのマニフェストをそのまますぐに実現しようとするためだ。
 その手法には、そもそも政治とは何かという根源的な疑問が湧いてくる。政治は多数派の形成を目指す権力闘争だろうが、それだけでなく、異なる意見と利害を調整しながら合意を形成して社会を統合する機能がある。地方に権限と財源を渡す分権型社会になるほど、地域の住民意思を統合する政治が重要になろう。
 首長が自分の政策の実現しか考えず、もう一つの住民代表機関である議会を軽視すれば、政治を拒否する独裁になってしまう。
 地方分権にふさわしい地方政治の枠組みが必要だ。
首長と議会が対話を重ね、議会を討論の場にしなければならない。政府が通常国会で準備する地方自治法の改正案は、首長の専決処分を制限したり議長にも議会招集権を与えて議会の通年化を促したりして、首長と議会の政治ルールづくりを目指す点に意味がある。
法改正の起点になった阿久根市では、市長リコールを担った37歳の西平良将氏が熟議と住民参加を唱えて市長に当選したのは象徴的に思える。春の統一地方選で各地で問われるのは、責任ある首長と議員を選ぶ有権者のたしかな眼だろう。」

阿久根の混乱のおかげで?地方自治法の改正案のなかに、首長が議会を招集しない場合の議長による招集権や、専決処分の範囲など、地方議会側が望む事項が追加された。
今後、分権が進むほどに、地方では“発信力のある”“劇場型”の首長が増えてくるだろう。それに対し議会側が、“議会としての”改革とその内容の発信を怠り、議員個人のパフォーマンスに終始するなら、住民の支持は首長に向かい、議会はその力を失っていくだろう。その結果、最終的に不利益を被るのは他ならぬ住民自身である。
引用文で強調したように、議会とは議論によって、異なる価値観をすり合わせながら合意形成を図っていく場である。“ムラ社会的”と形容される多くの地方議会では、同質のよどんだ空気の中で、議論を嫌い、異論を嫌う雰囲気がある。これでは住民が議会に不信を抱くのは当然である。