2023/3/21 松原市文化会館にて,ハンドポケット・カフェ,みてきました.
あらすじは,以下の通り.
http://bkd-hotnews.seesaa.net/article/497531566.htm
「過激なパフォーマンスで人気を得たミュージシャン・東野啓介は夢破れ帰郷、実家の喫茶店を手伝うことに。しかし、そこは『こども食堂』として地域の人々の居場所となっていた。心温まる再生と成長の物語。」
さて,思ったことをつらつらと.
・目標と悩みの関連性
①目標があると悩みが生まれる.
達成できないという悩み.
②目標が無くなっても悩みが生まれる.
失敗という悩み.
③目標が無くなって,実家に帰ってきても悩みが生まれる.
ある種の無力感,挫折.
④目標としていたものが,掘り返されても悩みが生まれる.
過去の姿が受け入れられるかどうか,
過去の姿と今の姿の違いを埋められない壁.
⑤目標としていたものが,大人によって捻じ曲げられても悩みが生まれる.
好きだったものをただ行う,ということが,お金を儲けるためのものに変わったこと.
WantがMustに変わったこと.
主人公の「目標」を軸に,その過程と現状を並べてみると↑のようなものが挙げられそう.
これは「目標」という言葉以外でも当てはまる気がする.
例えば「行動,チャンレジ」など前向きな言葉の方が多いか.
①は未来志向.②も次に向かうという意味で未来志向.
なのでこれらは健全.多分.
③,④は過去思考.
なので,変えられない過去を悔やむ意味での悩み.非健全.
⑤は,過去,かつ,他からの圧力.
これが最も非健全.
③をいじってみる.
実家に帰ったからこそ千尋に出会えた → 健全?
ここで,④はYoutube?を見た奥様方がどう感じるかの話,
⑤は大人たちが余計なことをしたという行動の話.
自分で捉え方を変えられる悩みなのかどうなのか,
そこを見定めて視点を変えると①,②,③は悩みではなくなるかも.
じゃ,④,⑤に関してはLamppostの歌詞の中を読めば何となくつかめるかもしれない.
④,⑤については→孤独感,居場所,自分に自信を持てなかった
そのあたりの言葉から,④と⑤の状況になったと逆説的に見れなくもない.(これは無理やり)
いずれにせよ,変えられることにフォーカスすることは大事.
・寛容と不寛容の両者が入り混じる場所
子供たちにご飯や居場所を与えるこども食堂.
その子供たちのアレルギーがある食事だと,なぜか子ども食堂の人が誤る.
子供たちの喧嘩で子ども食堂の人が責められる.
子ども食堂の人たちの寛容さと,子ども食堂に子供を預ける?大人たちの不寛容さのコントラスト.
見方を変えると,古き良き日本の姿(always 3丁目の夕日的な)がある子ども食堂の受け入れと,
都会の冷たさとでもいうか不寛容な態度.
あるいは,柔軟性がある世界と,システム化された世界.システムエラーは許さない,みたいな.
ってことは,心がギスギスするというか.
寛容と不寛容の境界線は,時間軸,構成論など色んな切り取り方ができそうで,
とはいえ共通した二項対立が描けそうな世界.
保子さんが,家庭に余裕が無くなって寛容の場所から離れたとき,
また,寛容の場所にもどってきたのも,その居場所の居心地とも関連あるか?
過去が良い,今が良い,不便が良い,便利が良い,というような対立ではなく,
保子さんみたいに,自由に使い分けるというのが良いのかなと思ったり(これは強引な解釈)
・当たり前は当たり前じゃない
これは単純な話.
誕生日ケーキをもらえない子もいるというくだり.
自分自身がめちゃくちゃ華やかな子供時代というわけではないが,
当たり前のことを当たり前にしてもらえていたことは感謝だなと.ただそれを思っただけ.
それに限らず,何事も,当たり前なことは実は当たり前じゃない.
・ポケットの名の由来に
ボルダリングのでっぱり,休む箇所をポケットと言うとは.
正式名称は,ポケットホールド,か.
ポケットの中で手を握る,手を包み込む,みたいなニュアンスにも取れそうで,
この名称は凄いなと思った.
言葉の意味,由来みたいなものを解きほぐすと何か新しいものが見えるかもしれない.
と思って,子ども食堂を調べてみたら,,,劇中では資金繰りの話はでたが,以下のようなイメージはわかなかった.
「困窮者が集まる場所と思われる」
という一方で,
「冬休み中に毎日開催したが、来てほしい子どもが1回しか来なかった[81]」「地域の幼稚園の子供と保護者が1クラス丸ごと来店し、本当に来てほしかった子どもが来店を遠慮していた[82]」「困っている親子というより、安く健康的な食事ができるから来ている普通の親子が多い[83]」「夕食の手抜きを目的とした母親の来店が増えている[46]」
ともある.
現実はまだまだ課題があることを改めて知る機会に.
貧困問題による誤解[編集]
子ども食堂への出入りが、周囲から貧困家庭との見られかねないという懸念から、本当に貧困状態にある子供はこうした食堂を利用しにくいのではといった意見があり[6][55][35]、実際にそうして出入りを敬遠する子供がいたとの報告もある[78]。同様の理由で、特に女子は来店しにくいとの指摘もあり、実際に来客の男女の比率が8対2だったとの報告もある[46]。群馬県太田市の子ども食堂でも、30人から40人の利用者を見込んでいたところが、実際の利用者は10人から20人程度であり、これも貧困世帯が対象とのイメージが広がっていることがその原因と見られている[60]。
マスメディアによって子ども食堂のことが多く報じられたことで、子ども食堂イコール貧困対策というイメージが広がり過ぎ、来店しにくくなっている子供ができたとの指摘や[32][39]、親が出入りを禁じるなどの状況が生まれていると危惧する声もある[79]。前述の「気まぐれ八百屋だんだん こども食堂」も、マスメディアに取り上げられ始めた当初は、貧困対策としての視点からの報道が多かったという[19]。
子ども食堂の開催希望が、その場所を求めて公民館に申し込んだところ、「困窮者が集まる地域と思われる」「貧困の子供はいない」と難色を示され、どんな子供でも楽しむことのできる場所だと説明を繰り返した末に開催に漕ぎつけたように、貧困対策というイメージから抵抗を持たれるケースもあり、日本各地で模索が続けられている[70]。子ども食堂の存在を知るには情報収集力を要し、足を運ぶには行動力や交通費を捻出する経済力も必要だが、貧困の最中にある人々にはそうした力がないとの指摘もある[80]。児童虐待を受けている子どもが、親が発覚を恐れて行くことを禁じていると危惧する声もある[46]。
「誰でも利用できる場所」としている子ども食堂には、「貧困や孤食など、本当に支援を必要とする子どもにどうすれば来てもらえるか」が共通の問題であり、「冬休み中に毎日開催したが、来てほしい子どもが1回しか来なかった[81]」「地域の幼稚園の子供と保護者が1クラス丸ごと来店し、本当に来てほしかった子どもが来店を遠慮していた[82]」「困っている親子というより、安く健康的な食事ができるから来ている普通の親子が多い[83]」「夕食の手抜きを目的とした母親の来店が増えている[46]」との声もある。
子ども食堂から子どもの貧困、貧困家庭、貧困対策のイメージを遠ざける例としては、店の名前に敢えて「子ども食堂」と名付けず、「子ども」だけを付けたり、「子ども」すら店名に含めないところもある[70]。また、店の名前はもちろん、活動内容自体も「子ども食堂」とは名乗らず、「こどものいばしょ」と謳っている場合もある[35][* 8]。また、貧困家庭というレッテルを貼られることのないよう、利用対象を「地域住民全員」に設定している店もある[69]。開設当初から「誰でも来店できる食堂」という概念を重視し、「恵まれない子どもたちのために」といった弱者支援のような態度をとらない店もある[84]。高齢者や障害者にも立ち寄ってもらうため、名称を「地域食堂」にするケースもある[85]。
自ら助けを求めにくい子供たちへの対策の一つとしては、東京都文京区で2017年10月から始められた「こども宅食」が挙げられる。これはLINEで申し込んだ利用者に対し、食材や加工食品などを自宅あてに直接配送するという、全国的に見ても前例のないもので、利用者から好評を博している[86]。