京都市東山青少年活動センター (長い) で 夕映えリリシズム を見てきました。

(なぜかアメブロに写真をいれるとしょっちゅう傾く)

 

  

 

Youtube配信もあるようなので、ネタバレにならないよう、

多分本筋での訴求点と異なっている、勝手に思ったポイントだけ。

 

 

1,記憶と記録

 

お父さん、余生を考え、短編の詩に、親密な人の、濃密な思いを綴ることで、

記録として色んな人の記憶に残っていく、とか?

 

お父さん、母親?のことを書くことが増えるようになったのは、

娘が後から見たときに、こんな一面もあるのだと伝えるためとか?

 

それとも、記録対象が変わることで無常感を出すとか?

 

なんというか、お父さんにとって詩は接着剤。

 

 

2,終わりないものにとどめを刺す難しさ(?)

 

3名の同人誌?作家達の違い。

書けない・締め切りに間に合わないのではなく、

自己満足がいくか、そして、そのためのハードルが高いか?という問題設定の違い。

 

芸術品には完成というものは無い。

と、するならば、一定のユーザーニーズを満たすで脱稿するか、

あるいは、自己満足がいくまでやりきるか。

 

ハードルを下げた結果がAI。

それでも自己満足でき、締め切りに間に合うなら、実はとどめを刺せている。

 

働き方改革的な(多分誤解釈)

 

3.世の中は無意味の余白。余白の解釈は人それぞれ。

 

カップル。

とある詩を見て内容の勘違い、早合点。

 

そこに書かれてある事実は事実でなく別の意図があるので、

人それぞれの狙いと解釈が異なってしまって、、、となる。

 

 

詩は、人にとって幾通りの解釈ができるから、

それこそ万葉集(歌集だが)のような古いものも

現代風の、個人毎の解釈がされる普遍性の高いものなんだなーと改めて思い返されるシーン。

 

 

同じことは詩(文字)ではなく、言葉(音声)でもできた気がするが、

解釈を色々な視点から見るには文字の方が良いのかもと思った(本編と関係なし)

 

 

ー-

全体通して、様々な年代の人、性別の人、環境の人が、

どの視点、立場にも投影できるような構成かも?

 

演者と観客の間の余白。自由な解釈。

みんな違って、みんないい

 

日常生活で起きる色んな事も、実はコア要素は少しで、大半は余白だと思えば、

視野も広がり、少しは楽な気持ちになるのかも。(と思い込む)

 

 

余白探しを楽しもう。