デフォルト状態にあるギリシアで行われた金融引き締め策を問う国民投票は、圧倒的な数字でNOが示された。世界中から「信じ難い!本気か!」という声が上がる中、金融経済と実体経済の狭間で、独自の外交を展開するギリシアの不思議を紐解きながら、民主主義の在り方について考えてみた。

当たり前のことだが、借りたお金はかえさなくてはいけない。それ以前に、借金すること自体を恥じる感覚を失ってしまうことは、社会的には許されない。恐らくギリシア国民も、借金を踏み倒す事が良い事だとは思っていない。

問題なのは、彼らにとって借金を返せないことと同じくらい、国策として返済に翻弄されることを受け入れる国民になることは恥なのだ。強いリーダーや政治主導を嫌い、すべからく民意が優先され、経済発展よりも精神の開放を好む国。いわゆる怠け者の国と揶揄され続けてきたギリシアが、これまで各国から支援を受け続けてきたのには、近代ヨーロッパの形成と深く関わる宗教改革の影響を受けなかったことによる、古代ギリシア・ローマ文化に回帰するヒューマニズム思想が根強く残っていることと、米ソの冷戦という外交的な問題が複雑に絡んでいて、これについてここで説明するのは割愛するが、ザックリと言うなら、民主主義の発生の地であるギリシアには、政治や宗教による指導・支配を許さないプライドの高さと、徹底した現実主義に根ざした強い外交力があるからに他ならない。

私は日本人なので、勤勉であることや誠実であること、約束を守る事を美徳として育ってきたし、これからもそういうものを大切にしたい。しかし、外交と言うものは美徳や正論をぶつけても何も解決しない。実行支配と同様に「返せないものは返せない」と突っぱねられたら、現実的に打つ手はない。

破綻を受け入れ、逆に利用してでもギリシア国民が守りたいものの正体を探る事で、金融経済の限界と民主主義の本質が白日のもとに曝されたのは事実だろう。