ネット選挙が解禁された。
主張したもの勝ちの欧米とは違い、沈黙が金とされる日本の社会構造の中では、20年は早かった様に思う。

ネット社会が悪いとは思わない。
個人と個人がネットで繋がる新しい社会の出現は、国境の無い、宗教による争いもない、理想郷へ一歩近づいた証と言えなくもない。だが、ちょっと待て?
理想郷を創ろうとする事自体がひょっとすると、とんでもない間違いなのではないか?

便利で、合理的で、論理的で、皆が自由に意見を言えて•••••
そういう社会が果たして本当に争いのない平和な暮らしをもたらすのだろうか?

不便で、非合理的で、情緒的で、背景を気にしながら言葉を選ぶ••••
そんな一見、愚かで無意味な事に、人は美しさを感じ、それを伝統と呼び、文化と呼び、信仰と呼び、何千年に渡り繰り広げられて来た人の営みの原点ではないのか

伊勢神宮は今年「式年遷宮」を迎える。神様のお引っ越しには五百億を超える費用が投じられるが、それらには税金は一円も使わず、すべて寄付で賄われている。20年に一度、神様の為に莫大な費用を投じて、新しい社を建てるなど無意味な事のように思うかもしれないが、その費用が集まるという事は、多くの人が伊勢神宮を心のよりどころとしているということだ。

都内の開発事業にありがちな、何千億という費用を投じて一時は栄えても、やがて新しいスポットに人気が奪われるような開発とはわけが違う。千三百年も前から、作っては壊しを繰り返し、その為の職人の技術を維持し、まちに雇用と活気を生み、日本中からの参拝客を絶やさない。伊勢の人々は冗談でこんな事を言う。「私らは、お伊勢さんと、近鉄さんと、赤福さんのお陰で暮らしてます」新規参入には厳しいが、そこで暮らす人々の幸福に繋がっている。そんな地域コミュニティ的なささやかな幸福さえも、ネット社会のキャッチーな正義論は破壊しかねない。万人に便利そうに見える理想郷など、社会主義が試みた幻想と同じだ。

話を戻そう。
少なくとも、ネット社会と現実社会のきちんとした線引きができるほど国民が情報に対して成熟していない段階でのネット選挙というのは、やはり時期尚早だ。早いこと、ネット社会に公共道徳を持ち込むか、欧米の様に徹底して相手を言い負かす訴訟社会に移行するか。日本の進路を決めるのが先決だ。