100分de名著・2017.04三木清 人生論ノート | 芸術家く〜まん843

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「人生論ノート」という一風変わったタイトルの本があります。1937年に冒頭の一章が発表されて以来、80年近くもロングセラーを続ける名著です。「怒」「孤独」「嫉妬」「成功」など私たち誰もがつきあたる問題に、哲学的な視点から光を当てて書かれたエッセイですが、その表題に比べて内容は難解です。書いたのは、西田幾多郎、和辻哲郎らとも並び称される日本を代表する哲学者、三木 清(1897- 1945)。今年生誕120年を迎える三木は、治安維持法で検挙され、獄死した抵抗の思想家でもあります。
三木はこの本で一つの「幸福論」を提示しようとしていました。同時代の哲学や倫理学が、人間にとって最も重要な「幸福」をテーマに全く掲げないことを鋭く批判。「幸福」と「成功」とを比較して、量的に計量できるのが「成功」であるのに対して、決して量には還元できない、質的なものとして「幸福」をとらえます。いわく「幸福の問題は主知主義にとって最大の支柱である」「幸福を武器として闘うもののみが斃れてもなお幸福である」。幸福の本質をつこうとした表現ですが、どこか晦渋でわかりにくい表現です。
こうした晦渋な表現をとったのには理由があります。戦争の影が日に日に色濃くなっていく1930年代。国家総動員法が制定され、個人が幸福を追求するといった行為について大っぴらには語れない重苦しい雰囲気が満ちていました。普通に表現しても検閲されて世に出すことができなくなると考えた三木は、哲学用語を駆使して表現を工夫し、伝わる人にはきちんと伝わるように言葉を磨き上げていったのです。
哲学者の岸見一郎さんは、「人生論ノート」を、経済的な豊かさや社会的な成功のみが幸福とみなされがちな今だからこそ、読み返されるべき本だといいます。一見難解でとっつきにくいが、さまざまな補助線を引きながら読み解いていくと、現代を生きる私たちに意外なほど近づいてくる本だともいいます。
厳しい競争社会、経済至上主義の風潮の中で、気がつけば、身も心も何かに追われ、自分自身を見失いがちな現代。「人生論ノート」を通して、「幸福とは何か」「孤独とは何か」「死とは何か」といった普遍的なテーマをもう一度見つめ直し、人生をより豊かに生きる方法を学んでいきます。

【指南役】
岸見 一郎(哲学者)
「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」の著者。
【朗読】
市川猿之助(歌舞伎役者)

2017.04.05 100分de名著・三木清 人生論ノート第1回 真の幸福とは何か

三木清は「幸福」という概念を考え抜いた。幸福を量的なものではなく、質的で人格的なものであるととらえなおす三木の洞察からは、経済的な豊かさや社会的な成功のみが幸福なのではないというメッセージが伝わってくる。そして、真の幸福をつかんだときに、人間は全くぶれることがなくなるということもわかってくる。第一回は、三木清がとらえなおそうとした「幸福」の深い意味に迫っていく。

人間が幸福を追求することは当たり前なこと。しかし、個人より社会を優先する幸福を追求する思想が抹殺されていた時代に人生論ノートを執筆した。今日もネットの普及により生きにくい時代になっていることからこの人生論ノートの必要性があるように思われる。

幸福が徳に反するものではなく寧ろ幸福そのものが徳である。自分が幸福であろうとすることは利己的ではない。

人間は成功と幸福とを同一視する傾向があるが、区別すべきである。

・幸福≠成功・達成=量的なもの
・幸福=気持ち(各自のオリジナル)=質的なもの
・幸福は人格である。
・刹那的な幸福・偽りの幸福≠人格=真の幸福
・幸福感≠幸福

2017.04.12 100分de名著・三木清 人生論ノート第2回 自分を苦しめるもの

「怒」「虚栄心」「嫉妬心」。誰もがふとした瞬間に陥ってしまうマイナスの感情は、暴走を始めると、自分自身を滅ぼしてしまうほどに大きくなってしまう。これらの感情をうまくコントロールするにはどうしたらよいのか? 三木が提示する方法は「それぞれが何かを創造し自信をもつこと」。たとえば「虚栄心」には「自分をより以上に高めたい」といった肯定的な面も潜んでいる。「何事かを成し遂げよう」という創造性が、こうした肯定面を育てていくのだ。第二回は、自分自身を傷つけてしまうマイナスの感情と上手につきあい、コントロールしていく方法を学んでいく。

<虚栄>
虚栄=人間の存在そのもの・最も人間的なもの

<虚栄を乗り越えるポイント>
①虚栄を徹底する=演じ切れば本物に
②虚栄心を小出しにする
③創造により虚栄を駆逐する=向上心

<嫉妬>
・嫉妬=悪魔の感情
・自分の創造力で作り出すもの

<人間が嫉妬するポイント>
・自分より高い地位にある
・自分より幸福な状態にある
・特殊なものや個性的なものではなく量的なものや平均化を求めるもの
    ↓
自分の個性を認めること=他人の個性を認めることができる

<怒り>
○ 怒る    × 憎しみ
・社会などに怒る公憤は必要

*怒り
・突発的
・純粋性・知性的

*憎しみ
・習慣的・永続的
・自然性・反知性的

<偽善>
常に他者の評価のみで判断するため、判断は全て他者の倫理や道徳、社会に委ねている。

2017.04.19 100分de名著・三木清 人生論ノート
第3回 「孤独」や「虚無」と向き合う

三木清は、哲学者ならではの視点から人間が置かれた条件を厳しく見定める。そして人間の条件の一つを「虚無」だと喝破する。だがこれは厭世主義ではない。人間の条件が「虚無」だからこそ我々は様々な形で人生を形成できるというのだ。また、一人だから孤独なのではなく、周囲に大勢の人がいるからこそ「孤独」が生まれると説く。そして、その「孤独」こそが「内面の独立」を守る術だという。第三回は、人間の条件である「虚無」や「孤独」との本当のつきあい方に迫る。

人間は虚無や孤独の中で生きる。

<虚無>=人間の条件
・自己=虚無の一つの点のような存在
・人間が存在するから虚無の世界がある
・形成力=虚無を掻き集める力
・自分自身で生きていく意味を作り出さなければならない=形成力
・形のない無数無限の世界と繋がって自己形成がしにくくなっている→孤独を感じる

<構想力>
矛盾や対立を解消せず混合させ受け入れる
→混合の弁証法を成立するためには押し付けではない温かい秩序が必要である
→虚無から脱失できる

外的秩序は強力により作り出せるが、内的秩序は価値多元主義よりも人間の尊厳を認める価値体系を

<孤独>
・山になく街にあり大勢の人の中にこそある
・美的な誘惑があり生きる上で必要なもの
・孤独のうちに価値を見出す
・孤独は感情ではなく知性の中にある

2017.04.26 100分de名著・三木清 人生論ノート
第4回 「死」を見つめて生きる

「人生論ノート」の冒頭で、三木は「近頃死が恐ろしくなくなった」と語る。人間誰もが恐れる「死」がなぜ恐ろしくないのか? 死は経験することができないものである以上、我々は死について何も知らない。つまり、死への恐怖とは、知らないことについての恐怖であり、死が恐れるべきものなのか、そうではないのかすら我々は知ることができないのだ。そうとらえなおしたとき、「死」のもつ全く新しい意味が立ち現れてくる。第四回は、さまざまな視点から「死」という概念に光を当てることで、「死とは何か」を深く問い直していく。

<希望>=人生=生きること
・死=観念
・死について考えることは無意味ではない
・生に執着する=死を迎えることができる
・死=加古・歴史=絶対的なもの
・歴史を改竄すること=死を尊重しないこと
・人生=偶然=必然=運命=希望
・生きる=可能性を信じ希望を持つ
・希望=人間の形成力

名著げすとこらむ。指南役:人生論ノート 『今、三木清を再読する意味』

岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者

プロフィール
1956年京都府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)非常勤講師。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著/ダイヤモンド社)をはじめ、『三木清『人生論ノート』を読む』(白澤社)、『幸福の哲学』(講談社現代新書)、訳書にプラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)、アドラー『人生の意味の心理学』(アルテ)などがある。

三木清(一八九七~一九四五)は日本を代表する哲学者の一人です。四十八歳で無念の死を遂げるまで、三木は精力的に自らの思想を世に問い、二十巻におよぶ全集が編めるほど膨大な著作を遺しました。

哲学にあまり馴染みがなく、三木の名にも、思想にも触れたことがない──という人の身近にも、彼は足跡を残しています。みなさんの本棚に並ぶ文庫本です。

今からちょうど九十年前の一九二七年、岩波書店から日本初の文庫本が出版されました。ドイツのレクラム文庫に範をとり、この文庫本というスタイルを発案したのが三木です。当時、彼は法政大学で教鞭をとる傍ら、岩波書店で編集顧問のような仕事をしていました。現在も岩波文庫の巻末には「読書子に寄す ──岩波文庫発刊に際して── 」という文章が掲載されていますが、その草稿を手掛けたのも三木です。

文庫本の登場によって、私たちは古今東西の名著を気軽に手にすることができるようになりました。今回取り上げる『人生論ノート』も文庫本で読むことができます。

本書が創元社から刊行されたのは一九四一年。太平洋戦争が始まる直前でした。これは「文学界」という雑誌に三木が連載していたエッセイを一冊にまとめたもので、刊行されるやベストセラーになりました。戦後、『三木清全集』(岩波書店)の第一巻に収められましたが、一九五四年に新潮文庫版が出て、以来六十年以上も版を重ねながら読み継がれています。

私が『人生論ノート』を初めて手にしたのは高校生の時。きっかけは、高校で倫理社会の授業を担当していた先生との出会いでした。

哲学に憧れを抱いていた私は、先生が京都帝国大学哲学科で学ばれたということを知って、俄然興味をもちました。京大哲学科といえば、『善の研究』の著者で京都学派の創始者でもある西田幾多郎が薫陶し、多くの哲学者が輩出した学び舎です。私もこの難著に挑み、その流れで西田の後継者と目されていた三木のことを知りました。

数ある三木の著作の中で、一番手にとりやすいと思えたのが秀逸なタイトルの『人生論ノート』でした。目次を見ると「死」「幸福」「怒り」「孤独」「嫉妬」「希望」など、人生の中で誰もが一度は突き当たるであろう問題が並んでいます。人生とは何か、人はいかに生きるべきかということについて、きっと興味深いことが書いてあるのだろうと予感したことを覚えています。実際には、高校生の私が読み進めることは『善の研究』と同じほど困難でした。それは哲学書を読み解く緻密な思考力が足りないというよりは、若い私には哲学を理解できるだけの人生経験がなかったからかもしれません。

ともあれ、西田や三木に強い刺激を受けて哲学を志した私でしたが、思いがけず先生は翻意を促しました。考えてみれば、先生の口から西田や三木の名が語られることは一度もありませんでした。年齢を考えると京大在学中に西田の講義にも出ていたはずです。先生と三木は五歳違いですから、三木のことも知らないはずはありません。

これは後で知ったことですが、戦後、京都学派の人々の一部は戦争犯罪人として公職を追われていました。女子高等師範学校の校長の職を解かれたという先生も、その一人だったのです。戦時下の厳しい言論弾圧、戦後の不遇──。先生が大学時代のことについて頑なに口を閉ざしたのは、そうした背景があったからなのかもしれません。自分のような苦労を私にさせてはいけないと思われたのでしょうが、哲学を学ぶことを断念しない私を見て先生は放課後の教室で、哲学の基礎やドイツ語を個人授業してくださいました。

戦争へと突き進む時代の重苦しい空気は、『人生論ノート』にも影を落としています。平明でストレートに響いてくる断章もありますが、あえて難解な書き方を選んでいると見えるところも多いのです。
『人生論ノート』の連載が始まったのは一九三八年、三木が四十一歳の時でした。その前年の日記には「狂人の真似をしなければ、正しいことが云えない時世かも知れない」と記されています。たびたび不掲載や発禁処分を受けてきた三木は、哲学用語やレトリックを駆使して晦渋な書き方をするほかなかったのです。

私は紆余曲折あってギリシア哲学を専門とすることを選びましたが、一方で西田や三木の思想にも絶えることのない関心を抱き続けてきました。なかでも三木の『人生論ノート』は、今という時代にこそ再読されるべき一冊だと思います。なぜなら、彼がこれを書いた当時と今の社会状況が酷似しているからです。

戦後、日本は未曽有の経済発展を遂げ、情報技術の革新によって私たちの生活スタイルは大きく変わりました。しかし、改めて『人生論ノート』を読むと、今の時代のことを念頭に置いて書いたのではと思わせるような記述が驚くほど多い。三木の言葉は、今の時代にも通じる問いを投げかけているのです。

難解であっても、読む人が読めば真意は伝わるはず──。三木はそう信じて書き続けました。彼はこの本を〝完成形〟とは見ていません。タイトルからも読みとれる通り、これは一種の研究ノート。「これで終るべき性質のものではなく」(「後記」)、さらに深め、発展させていくことを読者に託しています。ここに刻まれた言葉やレトリックの真意を一つひとつ読み解き、三木が本当に伝えたかったことを探る作業は、この遺産を引き継いだ私たちの責任でもあるのではないでしょうか。

経済的な豊かさや社会的な成功が幸福と見なされ、厳しい競争社会や効率至上主義の風潮の中で自分を見失いがちな現代だからこそ、本書を通じて幸福とは、孤独とは、死とは何かという普遍的哲学的な問いと向き合い、人生を真に豊かにする術について、一緒に考えていきたいと思います。

島津有理子のゆりこ's EYE
2017.04.17
『人生論ノート』収録を終えて

4年ぶりに「100分de名著」を担当することになり、ウキウキと心弾ませて臨んだ第1作がこの「人生論ノート」。薄い文庫本をみて、「これならすぐに読み終わるのでは?」 と思った私、あまかったです。読み始めてみると、まるで聖書を読んでいるよう!非常に重みのある文章なのだけれど、1回読んだだけでは意味がよくわからない!!そして、ひとつの文章の中に、逆のことが書かれてない!? これってどういうことー!!

読み解く鍵は、「時代」です。
人生論ノートが書かれた当時、すでに日本は日中戦争のさなか。さらに太平洋戦争へと突き進もうとしていました。
その「時代」のフィルターを通してみると、なぜこんなに難解な表現になっているのかが理解できます。言論統制をかいくぐってでも読者に届けたかった、三木清の真摯なメッセージが伝わってきます。「執着するものがあるから死に切れないということは、執着するものがあるから死ねるということである。」人生論ノートの中の一節です。初めて読んだときには理解できなかったこの一文が、いまでは常に私の中にあり、ともし火のように心を温かくしてくれます。

収録中、三木清の過酷な運命、そして「三木が命がけでつづったメッセージを伝え続けるのが、我々の使命だ」と熱く語る岸見さんの情熱に、何度も涙がこぼれそうになりました。
高校生の時から、くり返し人生論ノートを読んでいるという岸見さんは、今なお、新しい発見があるそうです。人生論ノートは、まさに一人ひとりの人生と共に歩んでくれる1冊のような気がしました。

こぼれ話。
三木清が遺したもの

三木清「人生論」、実はこの番組のプロデューサーに就任してからずっと取り上げてみたかった本でした。大学時代に、全体はよく理解できないながらも、「幸福」について洞察するいくつかの文章が心に突き刺さった経験があり、いつか深く読み解いてみたいと思っていました。しかし、長らく、「これは!」という論者がみつかりませんでした。もちろん専門家による三木清についての優れた研究書はいろいろあるのですが、意外にも「人生論ノート」にスポットが当たったものは少なかったのです。

心の中で温め続けていたある日のこと。意外なところから道が開けました。アドラー「人生の意味の心理学」の解説を岸見一郎さんにお願いしたとき、書棚に三木清の全集があるのを見つけて、小さく「あっ!」と声を出して驚いたのを今でもよく覚えています。「アドラーの研究者である岸見さんが三木清を?」と一瞬意外な印象をもちましたが、一方でギリシャ哲学の研究者でもある岸見さんならば、もちろん読み込んでいてもおかしくないだろうと思いなおし、番組終了後にお話をお聞きしてみました。すると、なんと「人生論ノート」は、若き日に哲学を学び始める原点の一つにとなった名著だというのです。

三木清の難解な文章に見事な補助線を入れつつ、現代の私たちに近づけて解釈してくれる岸見さんの解説を聞き、これは講師をお願いするしかないと考えて、折に触れ打ち合せを続けてきました。ときあたかも、アメリカにトランプ政権が誕生し、フランスでは大統領候補としてマリーヌ・ルペン氏が大いに注目を集め始めていた時期。世界各国で排外主義的な思潮が猛威をふるいはじめていました。また、国内でも、少しでも政府に対して批判的な態度を示すと、「非国民」「反日」といったレッテルをはられて攻撃されてしまうような風潮が、ネット上を中心にたちこめていました。

岸見さんと三木清について話すたびに、「今の時代は、三木が生きた時代にとても似てきているかもしれない」という感慨が深まっていきました。とともに、「三木が、戦前の厳しい時代に、言葉を通してどう現実と闘っていたのか」を見極めていく作業は、今、この時代だからこそ、とても意義深いことではないかという思いも強くなっていきました。そして実際、番組をご覧いただいてもおわかりの通り、三木の言葉は、まるでこうなることを予言していたかのように、今の世の中の状況を鋭く抉り出してします。

晩年の三木清は、言論の自由も奪われ、特高警察にマークされていた昔の友人を一晩泊め外套を貸し与えたというだけで検挙され、最終的には、戦争が終結した後にもかかわらず、釈放されることなく獄死します。GHQが「人権指令」によって治安維持法を廃止したのは、一説によれば、この三木の獄死に衝撃を受けたからだともいわれています。

犯罪とは無関係の一市民が、法律の拡大解釈で投獄され、殺される。こうしたことは二度とあってはなりません。三木の死を単なる過去の出来事としてかたづけてしまうことなく、貴重な教訓として、現代の制度設計の議論に徹底して生かしぬいてほしいと思います。

「感情を煽ることは容易だが、知性を煽ることはできない」。岸見さんは三木の知性に対する考えを一言に凝縮してこう表現してくれました。私たちは、ともすると、周囲の空気に流されてしまい、自分で考えることをやめてしまいがちです。三木は、こうした状況を「精神のオートマティズム」と名づけて鋭く批判しました。三木が訴え続けた、「知性」、そして「考え続けること」の大切さを胸に刻みながら、「偽善者」たちに煽られることなく、「孤の独立」を守り抜いていくこと。それこそが、三木の遺してくれたものを生かす道だと思います。