191206】 三木清 創造する構想力 理解メモ 最終

 

<技術> 重要

 

     歴史的に見ても、社会における個人の独立が科学の発達の原因となったのは、これによるのである。もとより人間は環境から離れて生きてゆくことができぬ。環境から離れた人間は生きてゆくために再び環境と結びつかなければならない。しかるにこの結合は人間にとってもはy直接的に行われることができぬ。そこから主体と客体との媒介者として技術が生まれるのである。人間の技術は人間的存在の右の如き超越性によって規定されている。P198

 

     習慣的になるということは自然的になるということである。発明として現れた技術は習慣的になることによって自然に換えるのである。技術が発明としてと共に習慣として構想力に関わるとういことは、構想力といわれるのものが創造的であると共に記憶的であるということに基づいている。p204

 

     人間の活動はそのあらゆる方面において技術的である。単に狭義における技術においてのみでなく、また芸術においてのみでなく、更に科学においても、政治はもとより道徳においても技術的である。

 

     単にいわゆる文化がすべて技術的であるのみでなく、人間形成そのものが技術的である。真の文化人とは単に文化を作る人間でなく、彼の人間そのものが文化であるような人間のことでなければならぬ。「ひとは漸次に彼の人格を発明する、ひとは彼が芸術品或いは科学を創造するのとまさに同様に自己自身を発明する」、ポーラントは書いている。まことにその通りである。P205

 

     「我々の各人は一種の作品であり、その形成においては、戯曲或いは詩の一片の発展におけるとまさに同様に、ルーティーヌ、模倣と発明とが、個人によって甚だ異るが、それぞれの位置を占めている」。しかも、模倣は単に他を模倣することに限られるのでなく、自己自身を模倣すること(習慣的になること)を意味するのでなければならぬ。発明が時間的であるとすれば、模倣は空間的である。形はもと時間的・空間的なものであり、人格も一つの形として発明と共に模倣によって形成されるのである。p205

 

 

 

 

 

<経験>

     経験という語は二重の意味を含んでいる。それは先ず或る客観的なものを意味している。経験といえば、実際に出会うもの、客観的に与えられたもののことである。錯覚や幻覚の如きも経験といわれるならば、たとい錯覚や幻覚であっても、それが経験とされることそのことは客観的事実であるのでなければならぬ。しかし他方、経験という場合、それはつねに主体的に関係づけられている。経験は経験するものの経験であり、経験する主体を除いて考えられない。従ってそれは或る主観的なものの意味を有している。かくして経験は主観的であって客観的なもの、客観的であって主観的にものである。経験が主観的・客観的なものであるということは本来何を意味するであろうか。主観的と客観的とはこの場合如何に結びつくのであろうか

 

     経験は独立なものと独立なものとのいわば出会いである。経験論において経験が単に受動的なものと考えられたのは知識の立場に止まるためである。経験は動的な行為的な関係として出来事の意味を有し、この根源的な意味において歴史的である。P212

 

     人間のすべての行為は本質的に技術的であって、経験は既に或る実験である。経験は実験と同じく操作的に試みるころであり、試みては誤り、誤ってみては試み、かようにして行為的に得られる知識が経験にほかならない。P212

 

     直観から論理が出てくるのであって、論理から直観が出てくるのではないp407

 

     形は弁証法的なものとして論理的に分析される。しかし弁証法的に対立するものの総合が如何なるものであるかは、かかる綜合の形そのものは、論理的によってではなく、直観的によって捉えられ得るのみである。論理的分析の行くつくところに直観が、構想力の飛躍がなければならぬ。単なる論理によって形が捉えられるかの如く考えるのは、出来上がった形即ち過去からの形を考えるからであって、出来つつある形、未来の形についてはそのことは不可能である。過去の形についても形から形への飛躍的転化は構想力の媒介なしには思惟され得ないであろう。ヘーゲルのいう具体的普遍の中には構想力が含まれていなければならぬ。弁証法の根源と結果とには構想力がなければならぬ党言い得るのであろう。p407