一般病棟にて…その4
●●●●
2007年8月29日(水)ー入院生活12日目。
その日は目覚めてから、 左手での書字の練習をし、一人ロビーで朝の陽を浴びていた。
机上に「右手」を荷物のように左手で持ち上げて置く。
手の平が下側になるように置き、手の平が上に向くように引っくり返す。
「回外」という動作で昨日Y先生から与えられた課題だ。
すこぶる簡単な動きなはずなのに、今の僕ではぴくりとも動かない。
指先も「動け!動け!」と念ずるが無反応。
今日も駄目か…
朝の陽が高くなると、 ロビーには患者や看護師、医師など徐々に人が現れる。
点滴をぶら下げた器具をガラガラと押す包帯の男性。
フロントで病院服でなくスエット姿で外泊許可を取る女性患者。
ナースステーションで真剣にモニターを覗いている看護師と医師。
にはその全ての人が羨ましく見えた。
僕もオジサンのその器具を「立って」押したい。
僕もこの場所から飛び出したいが、永遠に先の事かもしれない。
ぼくも右手でキーボードを打ち、右手でペンを持ち、 真剣な眼差しで仕事をしたい。
それがどの位先の事かは、神のみぞ知るのだろう。
僕は車イスで部屋に戻り、 冷蔵庫から家族が買ってくれたゼリーを取り出した。
ゼリーやヨーグルトの蓋は、 当然右手で開ける事なんて出来ない。
左手の出番だ。 左手で開けるのだが、右手でカップを押さえてられない。
そこで太腿の出番だ。 太腿の間でカップをはさみ左手で蓋をそっと開ける。
力が入りすぎて勢い良く開けすぎると、 中身がベッドに飛び散る事もあるので注意が必要だ。
袋に入ったポテトチップスなども非常に開けにくい。
両手で袋をつまんで引っ張る事が出来ないので、 左手と口で開けなければならない。
これも力の加減を間違えるとベッドがポテトチップスの海になる。
ベッドの上で僕はポテトチップスまみれで途方に暮れていた。
いかにテクノロジーが進化し世界が便利になろうが、 世の中で最も役立つ道具は「自分の手」だ。
あって当たり前の2本の手。 その重大で重要な価値に改めて気付かされた。
病室から見える街の風景はどれも見覚えがある。
あのマンションはシャンボール池田山。
そこは同級生の家近くのお寺。 どれも高い場所にあるものや高い建物だ。
背の低いウチのマンションは、 ベッドに座った状態ではギリギリ見えない。
立ってみようかな。
一般病棟はICUのように徹底された管理状態では無い。
病室にいれば行動はある程度患者まかせだ。
昨日N先生からは「まだ立たないで下さいね」と言われていた。
ベッドに座るだけでもフラフラするのに、 立ったりしたら目眩で世界が回るかもしれない。
それでも僕は立ちたかった。
自分の身体で行動できる範囲を少しでも広げたかった。
その時は動物的な本能が溢れ出ていたのかもしれない。
危なくなったら後ろのベッドに倒れればきっと問題無いだろう。
N先生ごめんね。僕約束破るから。
ベッド前の荷台に左手をつき、腿に力を込める。 腰をそっと上げてみた。
あれ?…立てるぞ。
補助していた左手をそっと離す。
子鹿のように脚はプルプルと震えるが、 それでも僕は暫く直立出来ていた。
窓のむこうに見覚えのある古くて白いフジコーポが見える。
ウチだ!!やった!
嬉しくて少し歩いてみたくなった。 N先生が見たら卒倒するだろう。
ベッドに手をついて「つたえ歩き」すえば、 ベッドの逆側までゆっくりと廻っていけるかもしれない。
自分でも少し不安な所はあったが、それでも試してみたかった。 ベッドに手をつき前屈みで少し歩いてみた。
うそ?…歩けるじゃん!
ゆっくりと一歩一歩確認するように脚を前に踏み出す。
右足は折れそうな細い枝のようだが、 それでもギリギリ折れずに震えながら身体を支えている。
一歩。また一歩。
ベッドの脚側まで歩いて少し休憩をした。 左手をベッドについて屈伸するようにしゃがむ。
よく五歩も歩けたな。反対側までもう少しやってみよう。 そう思って腰を上げようとした。
その時だ。
腿に力を入れて立ち上がるはずなのに、 右腿だけ力が入らず、ダラッと右下に腿が落ちて行ってしまう。
とんでもない重さだった。
普段人は自分の腿・腰・臀部の重さなど感じる事も無いが、 力の抜けた他人の腰など持ち上げればきっと重いはずだ。
さらに力の無い今の僕にとって、 それは中身のぎっしり詰まった鉄製で太く長い丸太のようだった。
まずい!このままじゃ身体が右に倒れていきそうだ! くっー!くそっー!
猛烈に力を込めて右に落ちそうな身体を左手一歩で引っ張り上げる。
倒れている所を看護師に見られたら、 また監視体制が厳しくなって先生にも説教され、 僕の行動範囲が狭くなってしまう。
それだけは絶対に回避しなければ。 左手は頼もしく僕の身体を何とか引き上げてくれた。
もう歩くのは止めよう。
僕はベッドに倒れこんで、 自分じゃないような右足に生えた巨大な化け物に絶句していた。
僕の右足は僕のじゃない。
小学生の頃、連合体育大会で区の新記録を作った大きな羽根が、
あの日ズタズタに引き裂かれ暗闇で朽ちていった。
2007年8月29日(水)ー入院生活12日目。
その日は目覚めてから、 左手での書字の練習をし、一人ロビーで朝の陽を浴びていた。
机上に「右手」を荷物のように左手で持ち上げて置く。
手の平が下側になるように置き、手の平が上に向くように引っくり返す。
「回外」という動作で昨日Y先生から与えられた課題だ。
すこぶる簡単な動きなはずなのに、今の僕ではぴくりとも動かない。
指先も「動け!動け!」と念ずるが無反応。
今日も駄目か…
朝の陽が高くなると、 ロビーには患者や看護師、医師など徐々に人が現れる。
点滴をぶら下げた器具をガラガラと押す包帯の男性。
フロントで病院服でなくスエット姿で外泊許可を取る女性患者。
ナースステーションで真剣にモニターを覗いている看護師と医師。
にはその全ての人が羨ましく見えた。
僕もオジサンのその器具を「立って」押したい。
僕もこの場所から飛び出したいが、永遠に先の事かもしれない。
ぼくも右手でキーボードを打ち、右手でペンを持ち、 真剣な眼差しで仕事をしたい。
それがどの位先の事かは、神のみぞ知るのだろう。
僕は車イスで部屋に戻り、 冷蔵庫から家族が買ってくれたゼリーを取り出した。
ゼリーやヨーグルトの蓋は、 当然右手で開ける事なんて出来ない。
左手の出番だ。 左手で開けるのだが、右手でカップを押さえてられない。
そこで太腿の出番だ。 太腿の間でカップをはさみ左手で蓋をそっと開ける。
力が入りすぎて勢い良く開けすぎると、 中身がベッドに飛び散る事もあるので注意が必要だ。
袋に入ったポテトチップスなども非常に開けにくい。
両手で袋をつまんで引っ張る事が出来ないので、 左手と口で開けなければならない。
これも力の加減を間違えるとベッドがポテトチップスの海になる。
ベッドの上で僕はポテトチップスまみれで途方に暮れていた。
いかにテクノロジーが進化し世界が便利になろうが、 世の中で最も役立つ道具は「自分の手」だ。
あって当たり前の2本の手。 その重大で重要な価値に改めて気付かされた。
病室から見える街の風景はどれも見覚えがある。
あのマンションはシャンボール池田山。
そこは同級生の家近くのお寺。 どれも高い場所にあるものや高い建物だ。
背の低いウチのマンションは、 ベッドに座った状態ではギリギリ見えない。
立ってみようかな。
一般病棟はICUのように徹底された管理状態では無い。
病室にいれば行動はある程度患者まかせだ。
昨日N先生からは「まだ立たないで下さいね」と言われていた。
ベッドに座るだけでもフラフラするのに、 立ったりしたら目眩で世界が回るかもしれない。
それでも僕は立ちたかった。
自分の身体で行動できる範囲を少しでも広げたかった。
その時は動物的な本能が溢れ出ていたのかもしれない。
危なくなったら後ろのベッドに倒れればきっと問題無いだろう。
N先生ごめんね。僕約束破るから。
ベッド前の荷台に左手をつき、腿に力を込める。 腰をそっと上げてみた。
あれ?…立てるぞ。
補助していた左手をそっと離す。
子鹿のように脚はプルプルと震えるが、 それでも僕は暫く直立出来ていた。
窓のむこうに見覚えのある古くて白いフジコーポが見える。
ウチだ!!やった!
嬉しくて少し歩いてみたくなった。 N先生が見たら卒倒するだろう。
ベッドに手をついて「つたえ歩き」すえば、 ベッドの逆側までゆっくりと廻っていけるかもしれない。
自分でも少し不安な所はあったが、それでも試してみたかった。 ベッドに手をつき前屈みで少し歩いてみた。
うそ?…歩けるじゃん!
ゆっくりと一歩一歩確認するように脚を前に踏み出す。
右足は折れそうな細い枝のようだが、 それでもギリギリ折れずに震えながら身体を支えている。
一歩。また一歩。
ベッドの脚側まで歩いて少し休憩をした。 左手をベッドについて屈伸するようにしゃがむ。
よく五歩も歩けたな。反対側までもう少しやってみよう。 そう思って腰を上げようとした。
その時だ。
腿に力を入れて立ち上がるはずなのに、 右腿だけ力が入らず、ダラッと右下に腿が落ちて行ってしまう。
とんでもない重さだった。
普段人は自分の腿・腰・臀部の重さなど感じる事も無いが、 力の抜けた他人の腰など持ち上げればきっと重いはずだ。
さらに力の無い今の僕にとって、 それは中身のぎっしり詰まった鉄製で太く長い丸太のようだった。
まずい!このままじゃ身体が右に倒れていきそうだ! くっー!くそっー!
猛烈に力を込めて右に落ちそうな身体を左手一歩で引っ張り上げる。
倒れている所を看護師に見られたら、 また監視体制が厳しくなって先生にも説教され、 僕の行動範囲が狭くなってしまう。
それだけは絶対に回避しなければ。 左手は頼もしく僕の身体を何とか引き上げてくれた。
もう歩くのは止めよう。
僕はベッドに倒れこんで、 自分じゃないような右足に生えた巨大な化け物に絶句していた。
僕の右足は僕のじゃない。
小学生の頃、連合体育大会で区の新記録を作った大きな羽根が、
あの日ズタズタに引き裂かれ暗闇で朽ちていった。