なぜ、いじめられっ子は幸せになれないのか? | 石田久二公式ブログ

石田久二公式ブログ

旧サイトです

ちょっと反感を買いそうなタイトルですが、これまで38年間生きてきて、残念ながらやっぱりその傾向が強いと判断されることになりました。そしてそこにはいくつかのメカニズムがあることもわかりました。



世の中には子どもでも大人でも何らかの「いじめ」が存在し、いつの時代も、それがなかなかなくならない現実があります。そこで「いじめっ子」と「いじめられっ子」を比べてみた場合、それも悲しいかな、「いじめっ子」の方が「いじめられっ子」よりも物心ともに豊かになっているケースが多いと考えられるのです。



願わくば、、、人を傷つけるような「いじめっ子」には天罰が下され、被害者である「いじめられっ子」はいつか彼らを見返すような幸せを手にして欲しい。そう願う人も決して少なくないと思われます。



しかし現在進行形で「いじめ」を行っている大人は別として、少年時代、何らかの形で「いじめ」に加わった経験のある大人たちでは、傾向として「いじめっ子」の方がいい奴になっており、「いじめられっ子」はどういうわけか卑屈な性格のままであるケースがままあるようなのです。



その理由を今までずっと考えてきたのですが、最近、わかるようなケースがありました。そのケースについて詳しく報告することはできませんが、エッセンスだけ言うと、大人になっていい奴になった「元いじめっ子」は、そのことに対して何らかの「懺悔」をしていること。



それはさほど重くなくとも「あの時はあいつに悪いことしたな~、今どうしてるかな~」などと、少なからず罪の意識を持ちながら、いじめた相手のことを多少なりとも気にかけている。



それに対して「元いじめられっ子」は大人になっても、その「元いじめっ子」のことを恨んでおり、いつか天罰が下されて欲しいと願っているのです。もちろんこれは一般的なケースと言うより、私が見聞きした範囲においてなのかもしれませんが。



ここに「許し」の構造があると思われます。確かに「いじめ」は悪です。撲滅すべきです。それは確かに理想的な社会かもしれませんが、現実問題として、いまだに存在するとすれば、大切なのはいかにして幸せになるかってこと。



その上で言うと、「元いじめっ子」は大人になるプロセスにおいて少なからずの「懺悔」をしながら、自分がしたことに対する禊ぎをしてきた。「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」という有名な言葉がありますが、この論理で言うと、悪人(いじめっ子)こそが「懺悔」によって自らを浄化し、大人になるとなぜかいい奴になる傾向が生みだされるのでしょうか。まるで映画のジャイアンのように。



それに対して、「元いじめられっ子」は、いつまで経っても人を「許す」ことをせず、自分を不幸に陥らせた人や社会に対する「恨み」を抱き続けます。そしてその恨みは「鏡の法則」のごとく、同じような恨めしい現実を引き寄せてしまい、ますます不幸に磨きがかけられるのです。



もう一度言いますが、いじめは撲滅すべきです。でも、実際にいじめられた経験があるのであれば、その人が本当の意味で幸せになるためのこと。それは「許し」以外にはありません。むしろ「元いじめられっ子」には「許し」のチャンスを神から与えられた、別のいい方をすれば、「許し」によって幸せになるために過去の出来事が起きた。そのようにも考えられるのでは、、、と思うのです。



確かに自分に危害を加えた相手を許すことは難しいでしょう。しかし、そこで本当に許せた時、、、初めて「幸せ」の意味を理解できるのかもしれません。



蛇足になりますが、ボクシングの元世界チャンピオンである内藤大助氏は中学時代、ひどいいじめられっ子だったそうです。中学卒業後、別の高校に行き、20歳でボクシングにジムに入門します。そしてめきめきと力をつけて日本チャンプになった時、中学のあった地元に帰郷します。



そこで当時のいじめっ子と対面しました。今こそ当時の仕返しだ!と思って、その相手を見た時、何とも寂しそうな顔をしているのを感じ、その瞬間、恨みの感情が一気に消え失せ許すことができた。そして今では、そのいじめっ子たちは、内藤の一番の応援団になっているとのこと。



様々な形はあるにせよ、人を許すことほど、自らを浄化することは他にありません。繰り返しますが、今日の話はかなり反感を買う内容だったかもしれません。でも、本当に思ったことを書かせて頂きました。