序章

この投稿記事は前回の天気の子についての解説の続きである。前回の投稿はざっくりとし過ぎていたため、今度は厳密に書き直す形になった。従って、天気の子についての疑問点をあげながら、丁寧に読み解いていきたいと思う。


本章


1なぜ穂高は家を飛び出したのか。


穂高が家を飛び出したのは息苦しさを感じていたからである。おそらく、何処でもない場所に行って、本当の居場所を見つけたかったからなのだろう。

穂高が絆創膏を顔に貼っていたところからも、おそらく親と大喧嘩をして家出してきたのだと思う。


2なぜ陽菜は穂高に年齢を偽ったのか。


陽菜が穂高に本当の年齢を言わなかったのは、陽菜が穂高に格好悪いところを見せたくなかったからかもしれない。なぜなら、陽菜は年齢詐称がバイト先にバレてクビになったことを隠しておきたかったからだ。


3どうして、拳銃がゴミ箱の中に入っていたのか。


穂高はゴミ箱の中からたまたま拳銃を見つけた。しかし、そもそもどうしてそんなものがゴミ箱の中にあったのだろうか。

高井刑事と安井刑事と蕎麦を食いながら、「柴田の銃をなぜ持っていたのか」と疑問を発する。また、刑事2人があそこまで必死に穂高を追いかけ回しているところを見ると、彼らはとても大きな事件を追っていたのではないだろうか。その大きな事件が穂高と繋がったからこそ、穂高を追い掛け回さなければならなかったのだと思う。


4須賀はどうして窓を開けたのか。


自分がびしょ濡れになるとわかっているのに、須賀はどうして窓を開けたのだろうか。

須賀は穂高を気まぐれにも自分と似ているという理由から、穂高に近づいていった。しかし、自分から近づいていったにもかかわらず、面倒事が起こったら、自分の立場を優先して穂高を追い出してしまったことに罪悪感を感じていた。

だから、その罪悪感を洗い流したいという思いが無意識のうちに窓を開けるという行為に出てしまったのではないだろうか。


5須賀はなぜ涙を流したのか


須賀は安井刑事に陽菜のおかげで天気が晴れたという話を聞く。しかし、常識人の須賀はそんなことを警察が信じているんですかと突っぱねるが、安井刑事の穂高少年に対する若さの郷愁を聞かされ須賀はつい涙を流してしまう。おそらく、須賀は大人になってしまったことで失ったものに気がついたのだろう。

須賀は穂高の元へ行って立ちはだかったのも、自分の若さを取り戻したかったからかもしれない。須賀はこの時、常識人として振る舞う自分自身に対して、迷いがあったのではないだろうか。


6須賀の失ってしまった若さとは何か。


須賀はなつみに自分と境遇が似ていることから穂高を、穂高がアメ(猫)を拾ってきたように須賀も穂高を拾ってきたということを指摘される。

そのような自分の境遇と重なる穂高が、人柱になった陽菜を取り戻しに行こうという姿勢が、かつての大恋愛をした自分を思い出させた。つまり、死んだアスカに対する想いと穂高の陽菜に対する想いが重なったのではないだろうか。実際、須賀は陽菜が天へと登っていく夢を見ている。妻を亡くした須賀圭介にとって、愛する人を失う想いを穂高にさせたくなかったのかもしれない。


7穂高と陽菜は本当に世界の形を変えたのか。


穂高は「確かに僕らは世界の形を変えてしまったんだ」と言っている。しかし、本当にそうだろうか。というのも、神社の神主であるおじいちゃんの台詞では、人間はこの世界で仮住まいさせてもらっているにすぎないからだ。仮住まいさせてもらっているにすぎないということは、徐々に形を変えてきた世界に人間は住んでるだけだということであって、別に穂高と陽菜が世界の形を変えたわけではないからだ。つまり、穂高と陽菜の行為とは長く続いてきた人と天気の歴史の延長に過ぎないということになるのではないか。だから、世界はただ変わっただけなのであって、「僕たちが世界の形を変えてしまった」というのは本当に正しいのか疑問に思わざるを得ない。つまり、変えたように思うだけなのではないか。


8最後のシーンの賛否


須賀はもともと世界は狂っているという。だから、穂高は世界がこのようになってしまったのは誰のせいでもないと思い至る。しかし、穂高は晴れ女でなくなってもなお天に祈り続けている陽菜の姿を見て、選んだのは僕たちであり、そして生きている、だから僕たちは大丈夫だ、と叫び出す。

しかし、何が大丈夫なのかよくわからなかった。陽菜を人柱になることから救い出したことで、年中雨続きの東京に成り果ててしまったのは、紛れもなく穂高自身のせいである。そうすると、穂高はとりかえしのつかないことをしたにもかかわらず、何も大丈夫なことはないのではないか。


結論


自由と責任の問題を考えさせられた。そして、そのような問題に答えていくことが大人になるということなのかもしれない。そういうことを新海誠監督は伝えようとしている。

また、歴史の問題も考えさせられた。人と天気がこの世界を徐々に変えてきたことを、これからも守り続けていくのか、それとも新たに超えていくべきなのだろうか。

新海誠監督は須賀と義理の母親とは会話するシーンで、「今の子はかわいそう。昔はもっと生きやすかった」と語らせている。ここのシーンで思わざるを得なかったのが、ゆとり教育の批判についてだ。若者と年寄りの価値観の齟齬が目立つとすぐに年寄りはゆとり教育のせいにする。しかし、ゆとり教育のせいにするのは自己論駁的であるし、時代とともに考え方が新しくなっていくのも歴史的に当然なことだろう。おそらく、このシーンで伝えたかったこととはそういうことなのではないだろうか。すなわち、このシーンは年寄りの若者批判を皮肉っていると解釈できるのではないだろうか。