ヨハネの福音書1章3節

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(新共同訳)

(3)  All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.(欽定訳)

(3)  all things through him did happen, and without him happened not even one thing that hath happened.(Young's Literal Translation)

(3)  πάντα δι᾿ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν.

古典ギリシア語のカタカナ読み「パアンタ デイ アイトイ エゲネト, カイ クオオウリイス アイトイ エゲネト オイデ ヘンヌ ホ ゲゴネンヌ」

 

万物All things (πάντα)

万物は別個に注視されています。言及されているのは、創造の無限の詳細であり、創造全体ではありません。創造全体とは、τὰ πάντα、つまりすべて(the all)によって表現されます (コロサイ人への手紙1章16節)。

 

コロサイの信徒への手紙1章16節:

(16)  ὅτι ἐν αὐτῷ ἐκτίσθη τὰ πάντα, τὰ ἐν τοῖς οὐρανοῖς καὶ τὰ ἐπὶ τῆς γῆς, τὰ ὁρατὰ καὶ τὰ ἀόρατα, εἴτε θρόνοι, εἴτε κυριότητες εἴτε ἀρχαὶ εἴτε ἐξουσίαι· τὰ πάντα δι᾿ αὐτοῦ καὶ εἰς αὐτὸν ἔκτισται·

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。(新共同訳)

(16)  For by him were all things created, that are in heaven, and that are in earth, visible and invisible, whether they be thrones, or dominions, or principalities, or powers: all things were created by him, and for him:

 

All things (τὰ πάντα)万物

この冠詞(τὰ[1]は、物事のすべて(the all)、宇宙全体という集合的な意味を与えます。 この冠詞がなければ、物事のすべては、個別に見たところの物事の全てになります。

この理由から、ヨハネは世界を偉大な体系として表す κόσμος (世界) (ケーオスモス)という言葉を避けています。 したがって、マイヤー(Meyer)が引用したベンゲル(Bengel)が、ヨハネによる福音書1章10節のκόσμῳ (世界) (ケーオスモーイ) [2]を類似物(parallel)として言及するのは誤りです。[3]

 

ヨハネによる福音書1章10節:

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。(新共同訳)

 (10)  He was in the world, and the world was made by him, and the world knew him not.(欽定訳)

(10)  ἐν τῷ κόσμῳ ἦν, καὶ ὁ κόσμος δι᾿ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ ὁ κόσμος αὐτὸν οὐκ ἔγνω.

カタカナ読み:エン トーホ ケーオスモーイ エーン、カイ ホ ケーオスモス ディ アフトゥー エゲネト、カイ ホ ケーオスモス アフトン ウク エグノー

 

All things were made by him(Πάντα διʼ αὐτοῦ ἐγένετο)(パアンタ デイ アイトイ エゲネト)(万物は言によって成った)

ギリシア語による解釈:

古代ギリシア語で直訳すると、「すべては彼を通じて存在するようになった。神(「λόγος」言い換えると「言」)を通じて全てのものが存在するようになったというキリスト教の創造論を表しています。

 文法的には、"Πάντα"は「全て」を意味し、"διʼ αὐτοῦ"は「彼を通じて」を意味し、"ἐγένετο"は「存在するようになった」を意味します。"διʼ αὐτοῦ"は[4]、「διά」(通じて)と「αὐτοῦ」(彼の)の組み合わせで、前置詞「διά」はその後の語を通じて何かが行われることを示します。そして、"ἐγένετο"は、動詞「γίγνομαι(ギーギノマイ)[5]」の過去形で、「〜になる」または「存在するようになる」を意味します。

万物と彼というこの関係は明らかです。言(the Word)は初めから神とともにありましたが、ただの働いていない(idle)で効果のない(inefficacious)存在としてではなく、かれがこの世に来られたときに初めて力を発揮された(put force energy)のです。 それどころか、彼はすべての活動と生命の源でした。 「すべてのものは彼(the Word)によって造られ、彼(theWord)なしには造られたものは一つもありませんでした。」

「肯定的な文と否定的な文の二重の文は、ヨハネの特徴であり、声明に強調を与えます。—πάντα とは、"grande verbum quo mundus, (大いなる言葉によって世界は) i.e.(つまり), universitas rerum factarum denotatur" (事実の全体が示される)(Bengel[6])は、日本語で、「肯定的な文と否定的な文の二重の文は、ヨハネの特徴であり、声明に強調を与えます。

「万物(all things)」を個別ではなく全体として捉えるより正確な表現は、τὰ παντα (コロサイの信徒への手紙1章16節) または τὸ πᾶν (全てまたは全体という意味)(ト パーン )でしょうか? そして、この聖句の否定節が示すように、ここでは被造物はその多様性と多数性(variety and multiplicity)において考察されています。

 

マルクス・アウレリウスの『自省録』第4巻、23章の言い回し「ὧ φύσις, ἐκ σοῦ πᾶντα, ἐν σοὶ πάντα, εἰς σέ σοί πάντα, εἰς σέ πάντα.—διʼ αὐτοῦ.」(ああ、自然よ、全てはあなたから生じ、全てはあなたの中に存在し、全てはあなたへと帰っていく。全てはあなたによって成り立っている。)[7] カタカナ読みをすると、「オー フュシス, エク ソウ パンタ, エン ソイ パンタ, イス セ ソイ パンタ, イス セ パンタ. ディ アフトゥ.」 言は創造の動作主(the Agent)でした。しかし、ローマ人への手紙11章36節では、神について同じ前置詞が同じ関係で使われていることに注意してください。

 

ローマの信徒への手紙11章36節:

(36)  ὅτι ἐξ αὐτοῦ καὶ δι᾿ αὐτοῦ καὶ εἰς αὐτὸν τὰ πάντα. αὐτῷ ἡ δόξα εἰς τοὺς αἰῶνας· ἀμήν.

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(新共同訳)

古典ギリシア語によるカタカナ読み「オティ エクス アフトゥ カイ ディ アフトゥ カイ イス アフトン タ パンタ. アフトオ イ ドクサ イス トゥス アイオナス; アメン.」

 

この節における前置詞の使い方は以下の通り。

ἐξ(または ἐκ)は「から」または「出て」を意味し、起源や出発点を示します。したがって、「ἐξ αὐτοῦ」は「彼から」または「彼に由来して」という意味。

- διʼ(または διά)は「を通じて」または「によって」を意味し、取次者(agent)または手段を示します。したがって、「διʼ αὐτοῦ」は「彼を通じて」または「彼によって」という意味になります。

 εἰςは「へ」または「に」を意味し、目的地や目標を示します。したがって、「εἰς αὐτὸν」は「彼へ」という意味になります。

 

そして、コロサイの信徒への手紙1章:16節[8]では、同じ著者(パウロ)がτὰ πάντα δι᾿ αὐτοῦ καὶ εἰς αὐτὸν ἔκτισται· (古典ギリシア語のカタカナ読みで、タ マンタ ヂ アフト カイ イス アフトン エクティスタイ[9])と言う時、父なる神ではなく御子の同じ前置詞を使っています。これを日本語に直訳すると、「全てのものは彼から生じ、彼を通じて存在し、最終的に彼に帰っていく」 。この文には2つの前置詞、"διʼ" と "εἰς" が含まれています。

1. "διʼ"(ディ): この前置詞は「〜を通じて」または「〜によって」という意味を持ちます。それに続く単語の格を指定します。これは格支配といい、前置詞ごとに決まっています。

2. "εἰς"(イス): この前置詞は「〜へ」「〜に向かって」「〜の中へ」の意味を持ちます。一般的に動作を伴う場合に使われます。ラテン語のin + 対格に相当します。

 

 

参考文献:

Nicoll, William Robertson, "Commentary on John 1". The Expositor's Greek Testament. 1897.

Marvin R. Vincent The Word Studies in the New Testament. 1887

 


[1] 「τὰ」は古代ギリシャ語の冠詞で、中性の名詞の主格または対格の複数形に対応します。これは、「ὁ」の中性の複数形です。つまり、「the」のような役割を果たし、特定の名詞を指します。例えば、英語の "the children" はギリシャ語では "τὰ τέκνα" となります。現代ギリシャ語でも同じ意味で使われています。このように、「τὰ」は名詞を特定化するために使用されます。

[2] "κόσμῳ"と"κόσμος"は、古代ギリシャ語の単語「κόσμος」の異なる格形です。古代ギリシャ語では、名詞はケース(格)システムを持っており、その形は文中での役割によって変わります。

1. "κόσμος":これは「κόσμος」の主格形です。主格は主に文の主語として使用されます。

2. "κόσμῳ":これは「κόσμος」の与格形です。古代ギリシャ語では、与格は主に間接目的語や手段、方法、場所などを示すのに使用されます。

[3] M.R. Vincent, Word Studies in the New Testament, 1888.

[4] 「δι᾿ αὐτοῦ」の中にあるアポストロフィは、古代ギリシャ語の文法的な特性を反映しています。このアポストロフィは、単語の一部が省略されたことを示しています。具体的には、「δι᾿」は「δια」の省略形で、「〜を通じて」または「〜によって」という意味の前置詞。このような省略は、古代ギリシャ語の詩や散文の中でよく見られ、特に詩では韻律(いんりつ)を保つためによく用いられます。

[5] γίγνομαιの活用等は次のサイトを参照せよ。γίγνομαι - Wiktionary, the free dictionary

[6] Bengelは、ヨハン・アルブレヒト・ベンゲル(Johann Albrecht Bengel)です。彼は1687年から1752年まで生きたドイツの敬虔主義の聖書学者で、新約聖書の本文研究の草分け的存在とされています¹。彼は本文批評の原則を最初に確立した学者で、新約聖書の写本がいくつかの系統に分類されることを最初に認め、比較的困難な読み方の写本の方が、原文に近いという、本文批評の原則を確立しました。(出所:ヨハン・アルブレヒト・ベンゲル - Wikipedia (2024年1月18日アクセス)

[7] 自然と宇宙の一体性、そして全ての存在が自然の一部であるという哲学的な考えを表しています。出所:Marcus Aurelius, M. Antonius Imperator Ad Se Ipsum, book 4 (tufts.edu)

[8] コロサイの信徒への手紙1章16節:

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

[9] 古典ギリシャ語で、「創造された」または「形成された」という意味。