祭司は、毎日、毎年、香を焚き、いけにえを捧げます。神の民はそれがなされているのを見て、神と彼らの間には罪が立ちふさがっていることを理解するようになりました。彼ら自身が直接神のところに来ることができないが、彼らの為に神に来ることができる神によって選ばれた人のところに来なければならないことを神の民は学んだのです。もちろん、旧約聖書の祭司は単なる人間です。彼らも罪人でした。人々のためにいけにえを捧げる前に、彼らは彼ら自身と彼ら自身の罪の為のいけにえを捧げなければなりませんでした。こうした祭司が、神と罪人たちの間の仲介者となることを神は決して意図していませんでした。彼らは、後に来られた完全な仲介者の予表にすぎませんでした。

 イエス様は毎日、神に完全に従順な生活を送られました。イエス様は罪を犯すことが決してありませんでした。それは一度もないのです。イエス様は告白するべきご自身の罪は全くなく、いけにえを捧げなければならない罪がまったくありませんでした。我々のように肉の体を持たれたイエス様は、私たちがちょうどそうであったように、あらゆる方法で試みを受けられました。それゆえに、イエス様は、私たちのニーズや私たちの弱さを理解することがおできになるのです。イエス様は決して罪を犯さず、いつも父なる神様を完全に喜ばせたのです。イエス様は完全に神であり、人間であるので、イエス様だけが、完全な祭司であられるのです。

 

このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。 
彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。 
律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。 (へブル人への手紙7章26~28節)

 

参考文献: Starr Meade, Training Hearts, Teaching Hearts, p.84.