アダムとエバが罪を犯すや否や、神は神の民を罪と罪からの悲惨な帰結から救うある方を遣わすことを恵み深く約束されました。しかし即座にその方を遣わされませんでした。罪は悲惨なものであり、罪は神の民を神から分離させることを、神は神の民に教えたかったのです。このことを教えるために、神の民が罪のいけにえを神のところに持ってくるように命令されました。神の民は羊または山羊または小牛を幕屋に運び、屠り、いけにえとして捧げることとなっていました。その動物を運ぶ人は、その人の罪がその動物に置かれていることを示すために、その動物の上に手を置きました。それから、祭司がその動物を殺します。このことは、その動物を運んだ人は死に値することを提示しています。しかし、その人の代わりに、その動物が殺されているのです。毎年、一年の間に、多くのいけにえが運び込まれることは、神の民に次のことを教えたのです。それは、神の民の罪はとても深刻なものであり、死によって罰されることに値するということです。

 

 神はまた、神の民に、祭司を持つように命じられました。祭司とはいけにえとして動物を捧げるために神がお選びになった人たちです。誰でもいけにえを捧げることができるわけではなく、祭司だけができたのです。このように、罪は人々を神から離し、罪は人々を神の敵にしてしまうことを、神は神の民に教えました。

 

 神の民は仲介者、すなわち神と神の民の間に来て、平和を作る方が必要であることを、神は教えられたのです。もちろん、一匹の動物の死は、神に対する我々の罪を支払うだけの十分な価値はありませんでした。そして、祭司は、それ以外の人々と同様に、罪人であるので、神と人間の間の仲介をするのに十分ふさわしいものであるはずがありませんでした。

 

 旧約聖書のいけにえと旧約聖書の祭司は神が約束された方を予表していたのです。これらは完全ないけにえを捧げる完全な祭司がどれだけ必要であるかを人々に示したのです。

大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。
彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、
その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。
かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。(へブル人への手紙5章1~4節)

 

参考文献:Starr Meade, Training Hearts Teaching Minds, pp.83-4.