梨本宮方子妃は、日本の皇族で1901年11月4日、
1909年7月6日、韓国併合が閣議決定されました。
併合後も、李王家は皇族の一員として高い地位を与えられました。
敗戦時、総理大臣の年俸が1万円だった時に、李王家の皇族費は
120万円と皇室に次ぐ巨費でした。
1916年8月3日、大磯の別邸にいた方子妃は新聞を見て驚きます。
「李王世子の御慶事-梨本宮方子女王とご婚約」と
自らの婚約が報道されていたのです。
東京に帰宅した後、父の正王氏から婚約の事実を知らされたのでした。
いわゆる政略結婚でした。
「日本の将来の為日本と朝鮮の王室は固く結ばれ、
両国民の模範とならなくてはなりません」と、
寺内元帥から言い渡されたといいます。
1920年4月、韓国皇太子、李垠(ウン)殿下と結婚しました。
垠殿下の父、李大王は
日本の皇族である方子妃との結婚を大変に喜んだそうです。
1931年12月29日、方子妃は王子玖を出産しました。
1945年8月15日、日本は連合国に敗れ終戦を迎えました。
1950年、垠殿下はマッカーサーに招かれて来日した
大韓民国初代大統領・李承晩と会談をしました。
その際、垠殿下が韓国に帰国する意思を李承晩に伝えましたが、
李承晩は冷たく「帰国したいなら帰って来てもいいですよ」と言い、
殿下は落胆して帰国をあきらめました。
1960年、李承晩は大統領選4選しましたが、
不正選挙を巡る学生革命により失脚しました。
1963年、11月22日、
垠殿下は方子妃と共に韓国への帰国を果たしました。
しかし垠殿下は、脳血栓と脳軟化症で意識は無くそのまま病院車で
ソウルの聖母病院に直行せざるをえなかったのです。
当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策の結果、
反日感情が横溢していました。方子妃は非難の的になりました。
「チョッパリ女出て行け」などと罵倒されました。
チョッパリとは日本人は草履を履くので、豚の足という差別用語です。
このような状況下の中、垠殿下は1970年に死去してしまいます。
韓国に帰国されることは許されましたが、
かつての国王としての財産は没収され、韓国政府から支給される経費は、
垠殿下の入院費と生活費で底を付いていたのです。
方子妃が、淑明学園の理事長問題に巻き込まれたことでした。
理事長は李王朝から選ばれるのが常でしたが、
新たな理事を擁立しようとする勢力は方子妃を認めず、
口汚い罵声や陰険な反対運動が繰り返されました。
「チョッパリ(豚足)」「ウェノム(倭)」という
明確な敵意を含む言葉をあびせられました。
「あんなウェノムが帰ってきて何ができる!」
「今更ウェノムを理事にして何になる!」
「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもすべて日本人が悪い」
方子妃を見かけると、指をさしてひそひそと何か呟く。
方子妃自身が
淑明学園の理事になることを望んでいたわけではないのですが、
朝鮮の教育問題には垠殿下とともに関心を持っていました。
戦前は日本留学中の朝鮮人留学生の為の寮を作り、
奨学金を下賜していました。
戦後も朝鮮動乱時に日本に密航した学生の釈放などに尽力しています。
しかし夫であり、方子妃の支えでもあった垠殿下は、
故国に戻ってから6年6ケ月72歳の生涯を静かに閉じす。
そして方子妃は晩年、福祉事業に打ち込んでいきました。
方子妃は韓国の社会福祉に尽くす為、
七宝焼を売りながら資金を集めます。
七宝焼を作るには、足踏みバーナーで長時間火を起こし、
夏場は暑さも激しくなります。
既に60代半ばの方子妃には重労働です。
そのようにして、
ポリオなどで麻痺した子ども達の自立能力を引き出すことを
目指して精神薄弱児の教育に情熱を注いでいきます。
福祉事業の第一歩は1966年、
心身障害者を対象とした職業訓練という形でスタートしました。
福祉の道を歩み始め、
寄付を募る方子妃には世間から厳しい目が向けられました。
「チョッパリが寄付を頼むなんて図々しい」
「よその国で何を始めようというんだ」
「大人しく飼い殺されていればいいのに」
風当たりは強く、思ったように寄付は集まりませんでした。
それでも方子妃は、韓国の福祉の為に努力し続けます。
方子妃の自伝「長すぎた歳月」のあとがきには、
次のような決意が記されています。
「これからの残りの人生を、韓国の社会が少しでも明るく、
不幸な人が一人でも多く救われることを祈りつつ、
一韓国人として悔いなく生きていきたいと願っています」
その言葉どおり方子妃は精力的に寄付を集め始めます。
経済力で上回る日本のほうが寄付を集めやすいと考え、
日本と韓国を往復する寄付行脚が始まりました。
そして、1971年6月、
方子妃の望んだとおりの田園風景が広がる京畿道光明市鉄山洞で、
2階建ての本館と寄宿舎を備えた明暉園の新築工事が始まりました。
この間、1972年10月には慈行会を母体とする
精神薄弱児の為の慈恵学校も設立されました。
移転出来たのは1978年10月20日です。
その後の精神薄弱児のための「慈恵学校」の創設で結実し、
多くの韓国国民から、「韓国障害児の母」として敬愛される存在となります。
還暦を越えて異文化に身を投じたお姫様が、
他者の為に人生を捧げた事は紛れもない事実です。
1989年4月30日にソウルで永眠した方子妃の葬儀は5月8日、
準国葬として執り行われ、頭を地にすりつけるという、
伝統礼式を李王朝の礼式にのっとって行われました。
ソウル中心街の沿道には多くの市民が詰めかけ、
「ウリナラ(わが国の)イ・バンジャ(李方子妃の韓国語読み)王妃」
と言って見送ったのです。
手を合わせる人、頭を下げる人、目頭を押さえる人。
そして1人の老女は車道に進み出て、
葬列に向かってひざまずいては何回も繰り返していました。
後に方子妃は、
韓国政府から韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈されました。
韓国の福祉の為に尽くした方子妃殿下の生涯は、
62歳から87歳で亡くなるまで、方子妃の四半世紀は福祉一色でした。