韓国人の為に尽くし、
韓国政府から勲章を受章した田内千鶴子さん。
1995年に公開された石田えりさん主演の日韓合作映画、
「愛の黙示録」をご存じの方は多いと思います。
石田えりさん演じる「田内千鶴子さん」は実在の人物で、
韓国の孤児3000人を育て上げ、
韓国の木浦で「共生園」という施設を造りあげました。
田内千鶴子さんは、1912年高知県に生まれました。
7才の時に父の朝鮮総督府の仕事で、今の韓国に渡りました。
彼女は裕福な家庭の一人娘であった為、厳格に育てられました。
やがて千鶴子さんは、女学校の恩師である高尾益太郎氏に、
孤児院を営む伊致浩氏の仕事を手伝ってほしいと要請されました。
伊致浩氏の孤児院は、孤児院といっても、今にも潰れそうな物でした。
しかし、千鶴子さんは、貧しいながらも孤児に愛情を捧げる彼の姿に
打たれ、その日から孤児達の世話を始めました。
1938年、二人は結婚しました。その後4人の子宝に恵まれました。
1945年8月15日、大東亜戦争が終わり、日本は敗戦しました。
韓国では、日本人に対する非難が起こりました。
千鶴子さんらも襲撃され、夫も白い目で見られました。
千鶴子さんは、仕方なく子供達と実母と一緒に故郷の高知へ帰ります。
反日の人達からは、刃物を投げつけられた事もありました。
千鶴子さんを慕う孤児達は「オモニは、僕達のオモニだ」と言って
千鶴子さんをかばいました。
更に、悲劇は続き、
今度は食料を調達に行った夫が行方不明になってしまったのです。
千鶴子さんは、女手一つで孤児院を続ける事を決心し、
以後も孤児達を守り続けたのです。
そのような千鶴子さんの頑張りぶりを見て、
韓国の人達も共感を持ち始めます。
1953年、朝鮮戦争が停戦となりました。
それにより、孤児達は500人に膨れ上がりました。
周囲の人々は、「子供を連れて日本に帰りなさい」と勧めましたが
千鶴子さんは、孤児たちを守る為木浦に残りました。
戦後の経済疲幣の中で、
彼女が育てた孤児院「木浦共生園」は今も存在しています。
千鶴子さんが亡くなってから、息子の基さん、
現在は孫の縁さんが孤児のお世話をしています。
千鶴子さんの思いが脈々と受け継がれているのです。
千鶴子さんは、病に倒れた際、
「自分の為に高い治療費をかけるのはダメよ。
そのお金を園の子供達の進学資金に使いなさい」と指示したそうです。
その後、千鶴子さんは死を覚悟して木浦共生園に戻ります。
愛しい子供達に囲まれながら、千鶴子さんは息をひきとったのです。
千鶴子さんは「韓国孤児の母」と呼ばれ、その活動が評価され、
1963年、韓国政府より「文化勲章国民賞」を受賞
1965年、第1回木浦市市民賞受賞
1967年、日本国政府より「紫授褒章」を受賞
1968年、56才の誕生日に逝去
韓国全土から3万人もの人々が集まりました。
新聞は、千鶴子さんの死を「木浦が泣いた」と報じました。