日本のレオナルド・ダ・ビンチの別名を持つ、
学天則の生みの親、西村真琴さん。
アメリカに渡った西村さんは博物館の仕事をしながら、
留学先のコロンビア大学で博士号を所得。
西村さんは、新進気鋭の生物学者として、
満州の生物を3年がかりで調査研究しました。
大正10年(1921)、38歳の西村さんは6年ぶりに帰国し、
北海道帝国大学の教授に就任。
教授に就任しては、絶滅寸前だったマリモの保護に力を尽くしました。
マリモが激減した原因は、水温上昇ではなく、
近くに作られた水力発電所の放水によるものだと突き止めました。
そして、試行錯誤のすえ、他の湖への移入に成功。
西村さんは、迫害されていたアイヌの救済にも奔走。
アイヌの救済にも力を注ぎました。
昭和2年、大阪毎日新聞社に入社。
西村さんは社長に、
「私に専用の研究室をいただけないでしょうか。
どうしても作りたいものがあるのです。」と願い出ました。
西村さんの作りたいものは、ロボットでした。
当時、欧米ではいくつか試作機が作られてはいるものの、
東洋では一台も製作されていませんでした。
昭和3年、京都で開催された昭和天皇即位の記念博覧会に、
東洋初のロボット、学天則を出展しました。
顔は世界の人種全てを合わせ、胸には世界平和を願ったコスモス。
照明があたると目を輝かせ、
優しく微笑み、右手のペンで字を書くそぶりをする。
西村真琴さん作り出した東洋最初のロボット、
学天則は大評判を獲得しました。
1936年(昭和11年)西村真琴さんは、新聞社を説得し、
大阪毎日新聞社会事業団内に全日本保育連盟結成を結成しました。
戦火の中国で傷ついた中国人の救出にあたったのです。
その後、民国窮民孤児援護会、隣邦児童愛護会などを作り、
日中戦争たけなわの昭和14年(1939)2月、
68名の中国人孤児が、大阪にやって来ました。
西村さんが発起人となり実現した中国人孤児の受け入れは、
昭和20年まで続きました。
敗戦から4年後の昭和24年、西村さんは、保母育成に尽力しました。
「子供をしっかり育てるには、子供だけを切り離して考えちゃだめなんだ。
子供と共に、その親も強く育てなきゃいけないんだよ。」
西村さんは人種の壁を飛び越え、
人と物の壁までをも乗り越えた人物でした。