韓国人の為に尽くし、
韓国政府から勲章を受章している日本人が数多くいる事を、
ご存じでしょうか。
戦後の韓国において、たった一人で日本人の女性のでありながら、
身寄りのない孤児達133人の養育に生涯を捧げ
日韓友好の架け橋となった人がいます。
「38度線のマリア」と讃えられる望月カズさんです。
望月さんは1927年に東京の杉並に生まれました。
父を知らず、4歳で母親と満州へ渡りましたが、
2年後にその母親も亡くなってしまいました。
天涯孤独となった望月さんは、農奴として転売されながら大陸を放浪し、
翌年終戦とともに日本へ帰りますが、身寄りもなく、
再び満州へ渡ろうとしました。
しかし北緯38度線を突破することができずソウルに留まりました。
そこで朝鮮戦争、韓国動乱に巻き込まれました。
銃火の下を逃げ回る望月さんの目の前で、
一人の韓国人女性が胸を撃たれ倒れました。
その腕には血まみれの男児がいました。
望月さんは、その男児を見捨てることが出来ずおもわず抱きしめました。
自分も孤児であり、辛苦の人生を歩んできた望月さんは、
自分と同じ身の上の孤児達を何とか庇護したいと心に決めたのか、
戦後の過酷な環境の中、ソウル市内のバラックに住み、
ほとんど孤立無援で肉体労働を重ね、露天での理髪業や軍手製造、
豆炭売り、時には体の血を売りながら子供達を育てていったのです。
1963年、望月さんは理髪師資格を取り、
その頃から「愛の理髪師」と呼ばれ始めました。
1964年、ソウル名誉市民賞を授与されました。
翌年には望月さんの書いた「この子らを見捨てられない」が出版され、
これが原作となって韓国映画「この地にあの星の光を」が公開されました。
この映画は日本でも「愛は国境を越えて」というタイトルで上映され、
多くの人々に感動を与えました。
1967年、韓国の独立記念日にあたる光復節に、
なんと第一回光復賞は日本人である望月さんに授与されたのです。
卑屈な生き方を嫌い、甘えを許さなかった望月さんは、
ダルマの親子の絵を描いて壁に貼っていました。
その精神は日本人としての誇りでした。
いつも和服にモンペで通し、
端午の節句には遠慮なしに鯉のぼりを翻しまた。
1971年、朴大統領から韓国名誉勲章・冬柏賞が贈られました。
その際、望月さんはいつもどおりの和服にモンペ姿で
下駄履きで授賞式に現れました。
驚いた大統領府の人々に、せめて靴だけでも履き替えるように
言われますが望月さんは、
「私は何も持っていませんので、これで駄目なら帰ります」
と言ってそのまま賞を授与しました。
望月さんの願いは、いつか祖国へ帰ることでした。
昭和58年11月12日、望月さんはソウル市内の自宅で
56歳の生涯を閉じました。
それから根元弁護士夫妻や支援者の願いにより、
富士山を望む場所に分骨埋葬されました。
昭和60年4月、静岡県の瑞林寺で分骨式が執り行われ
日韓関係者150人が参列し、口々に望月さんの偉業を讃えました。