1937年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、

関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、

陸軍は「ユダヤ通」の安江仙江陸軍大佐をはじめ、

当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた

樋口(陸軍少将)らを派遣しました。


この席で樋口氏は、

前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国である、

ナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、

「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、

間接的に激しく批判する祝辞を行い、

列席したユダヤ人らの喝采を浴びました。


大東亜青年会の虎
2万人の命を救った、樋口季一郎氏


これを知ったドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップは、

駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議しましたが、

上司に当たる関東軍参謀長・東條英機氏が樋口氏を擁護し、

ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかった為、事無きを得ました。


1938年3月、5千~2万人のユダヤ人がナチスの迫害下から逃れる為、

ソ連~満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅まで、

避難していました。しかし、

彼らは亡命先に到達する為に通らなければならない満州国の外交部が、

入国の許可を渋り、足止めを食っていたのです。

樋口氏はこの惨状に見かね、ユダヤ人に対し、

直属の部下であった安江仙江・陸軍大佐や河村愛三・少佐らとともに、

即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、

更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、

上海租界への移動の斡旋等を行いました。(オトポール事件)


大東亜青年会の虎
上海の日本租界に逃れたユダヤ人

1942年(昭和17年)8月1日、

札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)

司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。

アッツ島玉砕、キスカ島撤退、

敗戦後の占守島、樺太における戦闘を指揮し、

占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与えました。


その為、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口氏を、

「戦犯」に指名。


世界ユダヤ協会はいち早くこの動きを察知し、

世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、

在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まりました。

世界的な規模で樋口氏救出運動が展開された結果、

ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、

樋口の身柄を保護したのです。


大東亜青年会の虎

樋口季一郎氏によって救出されたユダヤ人


戦後イスラエル建国功労者として安江氏とともに、

「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に、

「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、

その功績が永く顕彰されることになりました。


また、樋口氏が終戦前後まで指揮をとっていた部隊内では、

捕虜の虐待や戦争犯罪とみなされる事件は、

ただの一件も起きていないのです。