㈱伊勢屋材木店 ユニットバス5大メーカー徹底比較!藤沢、茅ヶ崎、平塚でぽかぽかでラクラク清掃の浴室リフォームの秘訣 -2ページ目

拡がりすぎた団扇問題

 今日は、湘南ユニットバスアドバイザー清水です。

 閣僚が予算委員会で、公職選挙法と政治資金規正法違反

の問題で先週二人も糾弾された。

 今日2人の閣僚が、国会の運営をこれ以上遅滞させる訳

にはいかないと辞任した。

 安倍改造内閣は閣僚に5人の女性を抜擢し、輝く女性と

旗をあげて船出をして一ヶ月半。団扇問題で風をあおいで

いたら暴風雨となり暗礁に乗り上げる状況になってしまっ

た。

 二人の大臣が、同じ問題で辞任に追い込まれるというこ

とは、前代未聞。それも、二人共女性とはどういう事なの

だろう。女性は金銭問題ではガードが甘いということなの

だろうか。

 松島みどり法相は、地元で団扇を選挙民に配ったという

ことが、金品を配るという公職選挙法の資金運用違反に抵

触すると指摘された。
 
 大臣は

 「団扇ではない。これは私の公約を書いたもので

  ある。だから違反に当たらない。」

と答弁した。

 民主党の階(シナ)副幹事長は、現物を見せて、これは

団扇でしょうと、松島みどりの似顔絵が描いてある団扇を

見せるが、大臣は固くなに団扇とは認めていない。

 テレビでは松島みどりと描いてある面しか、階副幹事長

は見せないが反対の面には松島法相の云う政治信条、公

約が記されているのだろうと思う。だから、松島法相は違

反に当たらないと強弁するのだろう。

 松島法相と、民主党の階副幹事長の団扇問題で、お互い

に団扇をあおいでいる。テレビを見ている善良な国民は、

予算委員会の中で、与党・野党団扇問題で内輪の喧嘩をし

ている場合ではないでしょう。もっと対外的に大事なこと

があるでしょうと云いたくなる。

 松島法相も、団扇は団扇なのだから、団扇と素直に認め

て、ただの紙に私の政治信条や公約を書いただけでは、読

まずに棄てられてしまうかもしれない。団扇の形で書いて

あれば、団扇として使いながら読んで頂ける機会もあるの

ではないかと考えたアイディアであるとでも云った方が良

かったのではないだろうか。

 小渕優子経済産業大臣の地元選挙民の観劇会の参加者か

ら徴収した参加費より劇場側に支払った金額が4500万円

も多い差額問題が浮上。

 小渕経産相は

 「納得してもらえる説明が私自身現在全容を理解していな

  いので説明できない。」

と辞任の記者会見で答弁。

 地元後援会長である中之条町長が、責任をとって今日辞職

したのでこの違反問題は根が深いと思はざるを得ない。

 安倍総理も

 「今日中に後任を決める。」と云はず

 「大事なことですから早急に決める」と云った方が

間違いのない後任者を選べるのではないかなアー。

 






























































































































清少納言や紫式部は梅干を食べたかな?

今日は、湘南のユニットバスアドバイザー清水です。

 小学生の楽しい夏休みも、もう半分過ぎてしまいました。
 
 私の小学生時代を思い出すと海や山に遊びに行き、炎

天の中を走り廻りくたびれ果て、夕方帰って来ても熱中症

にならなかったのは、なぜ?

 時々は木陰に入って休んだ事と、朝と昼に、ご飯と一

緒に梅干を食べたからでしょう。

 昨年8月に「熱中症と日射病」というブログを書きましたが、

読んでない方は是非読んで下さい。

  熱中症予防には水分補給が大事ですが塩分補給も大事

  です。塩分の中のナトリウムが不足すると筋肉が動かなく

  なります。

 
            梅干の歴史


 梅干は梅の実を塩漬けにして、一ヶ月程して発酵して

から取り出し、3~4日天日干ししてから、保存食とする

ものですが、いつ頃から梅干を食べるようになったのでし

ょうか。

 中国では、2000年程以前から燻製にした梅を鳥梅

(うばい)と云って胃や腸の働きを活発にし、虫下しの効

があり、又下痢止め、吐き気、解熱、せき止めの薬として

用いたそうです。

 日本では遣唐使の時代(西暦636~890年代)に

鳥梅を持ち帰った記録があるそうです。

 梅の木は日本にも昔からあったのか、中国から梅の木

を持ち帰って、日本で生育したものなのか。

 卑弥呼の時代(3世紀)中国から持ち帰ったという説。

最近縄文時代の遺跡から梅の実が発見されたという話も

ありますが、決定的な物証はないようです。

 鎌倉時代に入ると、禅宗の僧侶の食事に梅干が用いら

れていたようです。

 一般庶民が梅干を食べられるようになったのは、江戸

時代に入ってからだそうです。そして元禄の頃、忠臣蔵の

時代(1688~1704)に紫蘇を入れて着色した赤い

梅干が作られるようになったそうです。


       清少納言は梅干を食べた?


 第二次世界大戦が始まる前の昭和15年頃迄は、自家製

の梅干を作る家が多かった。

 母が、八百屋から買ってきた生梅を、カリカリとかじり

 「酢パイヨ!」

と云って、顔をしかめながらも、カリカリの食感と酸味が楽

しく、二つ目に手を出すと、

 母が「そんなに食べると、お腹こわすよ」

と云って、とめられた。

 本当かどうか、母がいない時に、いくつか食べて、腹が

痛くなったこともある。

 平安時代も梅の木はあったのだから、子供達は私と同じ

ような体験をしている筈だ。いや、その頃は梅の木の数が少

なかったので、庶民の子は梅の木を知らなかったということ

も考えられる。朝廷とか、貴族の庭園に、梅の木があったか

どうかぐらい貴重なものだったのかも。

 貴族の子弟が生梅をかじることがあったかもしれないが、

多分、私以上にひどい目にあった子もいたでしょう。こんな

経験から、生梅は体に毒だということも判り、云い伝えられ

て来たのでしょう。

 清少納言や紫式部は、生梅をかじったことがあっただろ

か。私の感覚では紫式部より清少納言のほうがありそうな気

がする。でも、最後の遣唐使が西暦894年で清少納言は、

それから70年後に生まれている人だから、鳥梅は薬として

飲んだ可能性はあるが、生梅はどうか。

 もし、生梅を食べたことがあるなら、枕草子に何かしら、

いと面白く書いた事だろう。

 梅干は、鎌倉時代禅僧のお坊さんの間で食べられたという

記録があるほどですから、この記録をさかのぼること240年

前の平安時代後期、清少納言や紫式部の時代では、まだ梅

干は発明されず、鳥梅と同じ舶来品だったのではないか。

 私達庶民が、梅干を食べられるようになったのは、江戸時

代に入ってからと知った時、

 え!戦国時代に兵糧としておにぎりと梅干は携帯食と思い

込んでいた私のショックは、一般食ではなかったかも、或い

は食べていなかったかも、と云う疑問が入道雲のように湧きあ

がり、大変なものでした。























































































































































































































縁結びの神様                       出雲大社の千家と高円宮家のおめでた 

 今日は、湘南ユニットバスアドバイザー清水です。

 前回の、集団的自衛権の行使範囲について、6月22日

迄の会期中に閣議決定で了承されるのでしょうか。こんな

大事なことが閣議決定だけで運営されて良いのか。国民の

意志が何処ににあるのか確認されずに物事が進められる

ことに危惧を覚えます。

 さて、話はがらりと変わって出雲大社の宮司のあとつぎの

千家国麿(せんげくにまろ)さんと、高円宮典子(たかまど

のみやのりこ)さんのご婚約が5月27日発表されました。

これで神代の時代から続いている千家と天皇家とのわだか

まりが、融和されるのではないかと思います。このわだかま

りは千年以前のものなのです。



             国譲り神話 


 有央以前、神代の時代に出雲の国は大国主命が統治

していた。高天ヶ原を統治していた天照大神(あまてらす

おおみかみ)は、武甕雷之尊(たけみかづちのみこと)

を大国主命の処に遣はして、出雲の国の統治権を譲るこ

とを要求した。

 大国主命には2人の子がいた。兄を事代主命(ことしろ

ぬしのみこと)弟を健御名方富命(たけみなかたとみのみ

こと)と云う。大国主命と事代主命は、幾重にも重ねられ

た垣根の内に、高くそびえる家を作ってくれるならという

条件で、国を譲ることを承知した。

 然し、健御名方富命は承知せず戦いとなった。武甕雷之尊

は信濃国の諏訪湖まで追いつめ、ここで健御名方富命を降伏

させた。このような経緯があって出雲の国は高天ヶ原の天照

大神の天孫族(天皇家はその子孫)のものとなった、という

神話です。

 出雲の国は、武力によって天孫族に奪われたというわだか

まりの記憶が今も続いていると、司馬遼太郎の「27 街道を

行く」因幡・伯耆のみち檮原街道という本の中にも書かれて

ある。天皇家も又出雲大社には一度も公式には行っていない

ようだ。司馬遼太郎は千何百年も前の記憶をまだ忘れていな

いことに驚いていた。私もこの本を読み、初めて知り、強く

印象に残っている。

 千家の国麿さんと、高円宮家の典子さんがご結婚されるこ

とにより、国譲りのわだかまりが消えることを祈るのは私一

人ではないと思う。心からおよろこび申上げます。