清少納言や紫式部は梅干を食べたかな? | ㈱伊勢屋材木店 ユニットバス5大メーカー徹底比較!藤沢、茅ヶ崎、平塚でぽかぽかでラクラク清掃の浴室リフォームの秘訣

清少納言や紫式部は梅干を食べたかな?

今日は、湘南のユニットバスアドバイザー清水です。

 小学生の楽しい夏休みも、もう半分過ぎてしまいました。
 
 私の小学生時代を思い出すと海や山に遊びに行き、炎

天の中を走り廻りくたびれ果て、夕方帰って来ても熱中症

にならなかったのは、なぜ?

 時々は木陰に入って休んだ事と、朝と昼に、ご飯と一

緒に梅干を食べたからでしょう。

 昨年8月に「熱中症と日射病」というブログを書きましたが、

読んでない方は是非読んで下さい。

  熱中症予防には水分補給が大事ですが塩分補給も大事

  です。塩分の中のナトリウムが不足すると筋肉が動かなく

  なります。

 
            梅干の歴史


 梅干は梅の実を塩漬けにして、一ヶ月程して発酵して

から取り出し、3~4日天日干ししてから、保存食とする

ものですが、いつ頃から梅干を食べるようになったのでし

ょうか。

 中国では、2000年程以前から燻製にした梅を鳥梅

(うばい)と云って胃や腸の働きを活発にし、虫下しの効

があり、又下痢止め、吐き気、解熱、せき止めの薬として

用いたそうです。

 日本では遣唐使の時代(西暦636~890年代)に

鳥梅を持ち帰った記録があるそうです。

 梅の木は日本にも昔からあったのか、中国から梅の木

を持ち帰って、日本で生育したものなのか。

 卑弥呼の時代(3世紀)中国から持ち帰ったという説。

最近縄文時代の遺跡から梅の実が発見されたという話も

ありますが、決定的な物証はないようです。

 鎌倉時代に入ると、禅宗の僧侶の食事に梅干が用いら

れていたようです。

 一般庶民が梅干を食べられるようになったのは、江戸

時代に入ってからだそうです。そして元禄の頃、忠臣蔵の

時代(1688~1704)に紫蘇を入れて着色した赤い

梅干が作られるようになったそうです。


       清少納言は梅干を食べた?


 第二次世界大戦が始まる前の昭和15年頃迄は、自家製

の梅干を作る家が多かった。

 母が、八百屋から買ってきた生梅を、カリカリとかじり

 「酢パイヨ!」

と云って、顔をしかめながらも、カリカリの食感と酸味が楽

しく、二つ目に手を出すと、

 母が「そんなに食べると、お腹こわすよ」

と云って、とめられた。

 本当かどうか、母がいない時に、いくつか食べて、腹が

痛くなったこともある。

 平安時代も梅の木はあったのだから、子供達は私と同じ

ような体験をしている筈だ。いや、その頃は梅の木の数が少

なかったので、庶民の子は梅の木を知らなかったということ

も考えられる。朝廷とか、貴族の庭園に、梅の木があったか

どうかぐらい貴重なものだったのかも。

 貴族の子弟が生梅をかじることがあったかもしれないが、

多分、私以上にひどい目にあった子もいたでしょう。こんな

経験から、生梅は体に毒だということも判り、云い伝えられ

て来たのでしょう。

 清少納言や紫式部は、生梅をかじったことがあっただろ

か。私の感覚では紫式部より清少納言のほうがありそうな気

がする。でも、最後の遣唐使が西暦894年で清少納言は、

それから70年後に生まれている人だから、鳥梅は薬として

飲んだ可能性はあるが、生梅はどうか。

 もし、生梅を食べたことがあるなら、枕草子に何かしら、

いと面白く書いた事だろう。

 梅干は、鎌倉時代禅僧のお坊さんの間で食べられたという

記録があるほどですから、この記録をさかのぼること240年

前の平安時代後期、清少納言や紫式部の時代では、まだ梅

干は発明されず、鳥梅と同じ舶来品だったのではないか。

 私達庶民が、梅干を食べられるようになったのは、江戸時

代に入ってからと知った時、

 え!戦国時代に兵糧としておにぎりと梅干は携帯食と思い

込んでいた私のショックは、一般食ではなかったかも、或い

は食べていなかったかも、と云う疑問が入道雲のように湧きあ

がり、大変なものでした。