家の軒先や門口に貼られるお札には、神道では蘇民将来、仏教では角大師とかが有名ですが、江戸時代には様々な人名を書いた札を戸口に貼って疫病除けにしていました。
それらの人名は、疫病神との何らかの約束によって疫病の難をまぬがれた人たちで、その人物の名前を掲げると疫病の難にあわないと信じられていました。
その中に寛政2(1790)年ごろに「釣舟清次宿」という厄除け札を出した“釣船清次”という人物がいます。
彼はその札のいわれについて、奉行所で次のように説明しています。
本八丁堀二丁目の半兵衛の店の清次が申しあげます。
私が奇怪な話を広め、疫病除けのお札を出しているとの噂が広まり、そのことについてのお尋ねがありました。
私は釣り船の船頭をして生計を立てていますが、お客さんがいないときは自分で釣りをしています。
この5月24日にもお客さんがいなかったので朝の6時ごろから私ひとりで品川沖に船で行き、キスを100匹ほど釣りました。
午後2時ごろ、以前から魚を売っていた南小田原町の鉄蔵の魚屋に行こうと思い、築地本郷町の海岸の波よけ内に船を止め、船の中を掃除していました。
すると、どこから来たのか「見事なキスだな。くれないか」と声をかける者があり、振り向いたところ、顔かたちはよくわかりませんが背丈は1メートル八十センチぐらい、髪と髭を逆立て赤茶色のトロメン織の服を着た異国人のような出で立ちで、船の中ほどに立つ者がおりました。
疵のないキスを一匹差し出すと受け取って食べ、怪しげな様子で私どもの名前を聞いてきました。
「清次」と答えたところ、「自分は疫病神である。おまえは正直者なので家族や親戚が釣舟清次とおまえの名前を書きしるしておけば、その家へは行かないようにする」と言ったので、私はありがたく思いました。
その人物はどこかに去り、私は正気づいて恐ろしくなったので、すぐに南本郷町の河岸に船を漕ぎつけて、残った魚は鉄蔵に売り、船に乗って帰ってきました。
奇怪な話でこのことを妻子や店の者に話したところ、お店の藤八の妻で「つな」という者が疫病を患っているので私の名前を書いてほしいと言われました。
読み書きができないのでそれは難しいと言いましたが、店の者が「釣舟清次」と書いてみせてくれたので、その通りに書いてやったところ「つな」の病気が治ったのです。
このことを店や近所の者が聞きつけて書いてくれと頼んでくるので仕方なく書いてやっていましたが、いささかもお礼の品は受け取っておりません。
私は日々の生業があり、あちらこちらから書いてもらいに来られては仕事の邪魔になってしまうので、最近は頼みに来られても断っています。
以上は大田南畝の随筆『半日閑話』にある記事ですが、さらに
「この疫神といった人物は月日がたったのちの風説に、大泥棒で水中を魚のように潜り、屋根などを鳥のよう飛んだが翌年に召し捕られたと言い伝えられている」
とも記されています。
この補足だけみると、疫神を名乗った人物はじつは大盗賊で、嘘をついていたようにも思えますが、「つな」の病気が実際に治ったり、これ以降も「釣船清次」の札がもてはやされて、ついには「釣船神社」という神としてあがめられるに至るのはなぜなのでしょうか?