神田明神についてはたくさんの史料に記載されていますが、将門塚そのものについてはさほど多くはありません。

 

将門塚をめぐる由来譚の代表的なものには次のようなものがあります。

 

 

○『武陽神田神廟記』より

 

つつしんで考えるに、神田明神は一殿に二座合祀されていて、左は国造の大己貴命、右の相殿には平将門公の霊が祀られている。

以前は豊嶋郡芝崎村(今の神田橋の内側、のちに土井利勝の宅地になる)に鎮座されていた。

開基についてははっきりしない。(縁起や旧記などは中古以前に失われてしまった)

将門公の死体が官軍を追ってきて、芝崎村の神田近辺で倒れた。

当時の人はその祟りを恐れて墓を築き、そこにお祭りした。(今もなお土井利勝と井上河内守正利の宅地の境界にある)

なお、めでたいことの前兆としての不思議な現象が現れたので、勅許をもらい神田明神と合祀した。

よって当社は一殿二座となった。

 

 

茨城県の石井で流れ矢に当たって落命した将門公の首は京に送られましたが、身体は死んでおらず、首を求めて胴体が追いかけたり、別の史料では反対に京で晒された首が胴体を求めて東国へと飛び立ちます。

 

そして、途中で力尽きて落ちたり倒れた場所が芝崎村で、そこに塚が築かれた、という伝承が数多く語り継がれるようになりました。