大正12年(1923)9月の関東大震災が起きるまでは、首塚には将門公の亡骸が埋葬されていると信じられていました。
江戸時代に入江を埋め立ててできた土地だった首塚周辺は揺れが大きく、大火災によって一面焼け野原になってしまい、その焼け跡を整理するために思い切って塚を発掘することになりました。
「掘りすすむと古い石室が現れたが、その中には江戸時代のものと思われる、瓦や陶器の破片などの湿った土があり、かつて一度盗掘され、また補修されたらしいことが認められたのみで特別の出土品はなかった。
これで安心したためもあって、塚の跡は再び整地されて、そこに仮庁舎が建築された。ところが間もなく、この庁舎を中心に執務する大蔵省の役人の中で、怪我や病気になる者が続出した」といいます。
(『史蹟 将門塚の記』より)
さらに大蔵大臣や工事関係幹部の死者が14人にものぼったため、首塚を壊した祟りであるという噂がひろがって、大いに人々を脅かし、ついに首塚の上に建てられた庁舎を取り壊してしまいました。
将門公の亡骸が発見されなかったので安心して工事に取り掛かったのでしょうが、それにも拘らず祟りがあったということは、それは将門公の祟りではなくてお祀りされている神様の戒めだったのかもしれません。
柳田國男は『塚と森の話』の中で、塚には死体を納めている墓所と、墓所ではないものの二種類があって、後者の塚は一種の“祭場”である、と言っています。
山や森、丘や樹木や石などを神として祀ったり、そこに降臨された神々を祀る自然崇拝がありますが、これに対して塚は、ご神霊を招くために人工的に造られた聖地だというのです。