このようにして柴又帝釈天はしだいに近郷の人々の信仰を受ける一方で、板本尊の出開帳を行ったり、ご利益を宣伝したりしたので、江戸市中にも信者が増えていきました。


また、板本尊が発見された日が庚申だったところから、60日おきにめぐってくる庚申の日が縁日となり、当時盛んだった「庚申待ち」の民間信仰と結びつきます。

この「庚申待ち」というのは、庚申の夜には人の体内にいる三尸(さんし)という三匹の虫が、人の眠っているあいだに天に上って「天帝」に人の罪過を告げるゆえ、その夜は眠らず、かつ種々の禁忌を守って謹慎していなければならないという信仰で、この「天帝」と帝釈天を同一視して、柴又詣が流行ったようです。


見ざる言わざる聞かざる


しだいに参詣者も増えて講中もでき、庚申の前日の宵庚申には、近郷や江戸市中から人々が暗いたんぼ道を提灯を連ねて帝釈天に参詣し、本堂で夜を明かして翌日早朝の一番開帳を受け、庭先にあふれるご神水をいただいて帰路についたということです。




やがて江戸からの道中には何ヶ所も道標の石を立て、荘厳なお堂も建てられるようになりました。