『常陸国風土記』や『万葉集』にみられた歌垣(嬥歌)がその後どうなったのかが分かる記録は残されてはいませんが、男体山の山頂には筑波男大神(つくばおのおおかみ)として伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、女体山山頂には筑波女大神(つくばめのおおかみ)として伊弉冊尊(いざなみのみこと)が祀られ、山腹には拝殿が設けられて神祇信仰の場になっていきました。

こうした素朴な筑波山信仰が、平安時代の初めに法相宗の徳一
仏教信仰をもたらしたことによって大きな変革を迎えることになります。

徳一は、奈良で学んだのち東国に下り活動するなか、空海に神真言密教の疑義を記した書物を送ったり、最澄に天台教学に関わる仏教論争を挑んだ理論家で、筑波山神社のなかに筑波山寺、のちの筑波山知足院中禅寺を開きました。

これにより神仏習合が進み、筑波山は千手観音、十一面観音を本地仏とする大権現としてあがめられるようになっていきます。