また、お花見の時期に賑わう上野公園の桜も、天海僧正が江戸庶民の憩いの場とするべく吉野山から移植させたのが始まりといわれ、根本中堂が完成した元禄11年(1698)にお花見の場所として一般にも開放されました。
江戸時代は上野の山全体が寛永寺の境内で、堂塔伽藍や子院36ヶ院(現在は
19ヶ院)が立ち並ぶ巨刹でしたが、慶応4年(1868)5月15日の上野戦争で大半が焼失し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され、現在に至っています。
江戸時代は上野の山全体が寛永寺の境内で、堂塔伽藍や子院36ヶ院(現在は
19ヶ院)が立ち並ぶ巨刹でしたが、慶応4年(1868)5月15日の上野戦争で大半が焼失し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され、現在に至っています。
上野公園、氷の彫刻コンテスト
