江戸の都市計画においても、自然の地形は活用されたようです。

日本坂道学会副会長のタモリさんは、『タモリのTOKYO坂道美学入門』の中で次のように述べています。


「東京に初めて来て感じたのは、なんと坂の多い所だということだった。京浜東北線を境に西側は台地と谷の地形で当然それらをつなぐ道は坂道だ。東京、大阪、京都、名古屋を地図で見ると、緑か茶色一式で塗られており高低差がないように描かれている。これら大都市は東京を除いてほとんどが平地である。東京もそういうふうに描かれていたので当然平地だと思っていた。ところが、実際来てみるとかなり高低差があり、しかも大都会のど真ん中に驚くような急傾斜の坂がいくつもあった。こんな大都市は東京だけだ。そして東京の坂は江戸時代からの名前、由緒がはっきりとしている。
江戸の町は非常に計画的に造られている。大きく分けて現在の京浜東北線の東側は下町で、碁盤の目のように東西、南北の道が直交しており、主に町人の町だ。これに対して西側は山の手で、台地と谷の地形から成っており、尾根筋に東西の道その両側に大名屋敷そして谷にわずかに町人が住むという配置だ。大変に美しい町だったようで、当時ヨーロッパから来た外国人が、べニスよりきれいな街だと感嘆している。下町の道は現在でもほとんどが江戸時代からの道だが、山の手は明治以降の開発で、江戸時代の道はなかなかわかりにくい。しかし坂道だけはそのまま残っており、まわりが変わっているだけだ。」


江戸の都市計画においては、方位などの平面的な空間分割よりも 、地形の変化を考慮に入れた3D的な住み分けがなされていたようです。