それは、鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』(ちくま学芸文庫)という本でした。
その中に次のような記述があったのです。
「 このような土地に潜在する悪条件の見極めの手段として、古代中国では風水や八卦、陰陽五行説などが成立したといえよう。前に見た風水の陽宅・陰宅などの理論がその典型だった。
しかし日本の近世都市江戸はそうした古典で固められた学説・理論を無視するところから出発し、しかもそれを継続させている点に、大きな特徴があった。
再び方位のことを問題にすると、試みに江戸城を始め大阪・名古屋・駿府城、そして日光の寺社のそれぞれの創建当時の建築図などで、その建築の方位関係を確認すると、現在の一般庶民の小住宅でさえ常識的に是認されているような、例えば「鬼門」(その建物の北東方向)といった方位などは全部無視している。またそうした建築物の相互の方位関係についても同様である。
そこにはまさに「近世」(当時の現代)の強烈な精神的な意志さえ感じさせる。」
都市史研究家の鈴木理生氏が地形学・考古学の視点から判断すると、江戸では風水は用いられてはいなかった、というのです。
その中に次のような記述があったのです。
「 このような土地に潜在する悪条件の見極めの手段として、古代中国では風水や八卦、陰陽五行説などが成立したといえよう。前に見た風水の陽宅・陰宅などの理論がその典型だった。
しかし日本の近世都市江戸はそうした古典で固められた学説・理論を無視するところから出発し、しかもそれを継続させている点に、大きな特徴があった。
再び方位のことを問題にすると、試みに江戸城を始め大阪・名古屋・駿府城、そして日光の寺社のそれぞれの創建当時の建築図などで、その建築の方位関係を確認すると、現在の一般庶民の小住宅でさえ常識的に是認されているような、例えば「鬼門」(その建物の北東方向)といった方位などは全部無視している。またそうした建築物の相互の方位関係についても同様である。
そこにはまさに「近世」(当時の現代)の強烈な精神的な意志さえ感じさせる。」
都市史研究家の鈴木理生氏が地形学・考古学の視点から判断すると、江戸では風水は用いられてはいなかった、というのです。