「天国と地獄」の影響力 | 高橋いさをの徒然草

「天国と地獄」の影響力

1980年に名古屋で身代金目的の誘拐事件が起こる。犯人は寿司職人のK、被害者は地元の女子大に通う22歳の女子大生である。「名古屋女子大生誘拐殺人事件」として知られるこの事件の犯人Kは、黒澤明監督の「天国と地獄」(1963年)を見て誘拐による身代金強奪を思い立ったらしい。ものの本によれば、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」(1963年)の犯人も、「新潟デザイナー誘拐殺人事件」(1965年)の犯人も同作に影響されて誘拐事件を起こしているという意味では、この映画はそれだけ大きな影響力があったということである。現実に生きる人間を誘拐という犯罪に誘う力を持つ映画を「反社会的!」と非難する人もいるかもしれないが、わたしはむしろそのリアリティを賞賛したい。

わたしは漠然と犯人たちは「特急こだま」を使って行う身代金の受け渡しの方法を参考にしたと思っていたが、名古屋の事件の犯人Kを含め、犯人たちは、別の点に注目していたらしい。すなわち、誘拐した人間を生きたまま解放すると目撃証言から足がつくという点である。確かに「天国と地獄」において誘拐された後、解放された少年の目撃証言は、警察が犯人の足取りを追う上で重要な役割を果たした。そして、犯人(若き日の山崎努)は最後に逮捕されるのである。目撃証言から警察の捜査が自らに及ぶことを恐れたKは、誘拐した女子大生を誘拐後にロープで首を絞めて殺害するという非情な手段を選択する。他の犯人たちも同様である。

それにしても、三つの現実の事件において参考にされた「天国と地獄」は、改めてすばらしい映画であるとわたしは言いたい。黒澤明監督は、何も誘拐事件を助長しようとして本作を作ったわけではなく、むしろその逆の誘拐犯への怒りの感情から映画を作ったのだ。ただ、描かれた誘拐犯の行動が余りに賢く、独創的だったゆえにこういう模倣犯を生み出してしまったのである。たぶん現実世界の模倣犯の出現に監督は深く悩んだにちがいない。しかし、わたしはこの映画を作った監督を尊敬こそすれ、非難する気持ちは皆無である。被害者の遺族を前には言いにくいが、これこそ芸術家冥利に尽きることではないか。

※同作。(「Amazon.co.jp」より)