知らないオジサン | 高橋いさをの徒然草

知らないオジサン

幼い子供を家から外へ送り出す時、世の母親たちは次のような台詞を言うことが多いと思う。

「行ってらっしゃい。車に気をつけてね」

しかし、わたしが幼い頃、母親たちは次のような台詞を言って子供を送り出したように思う。 

「行ってらっしゃい。知らないオジサンに声をかけられても着いていっちゃダメよ」

つまり、1960年代から1970年代にかけては、車以上に危ないものが存在していわけである。世の母親たちはそれに対しての警戒を怠らなかった。すなわち「知らないオジサン」である。「知らないオジサン」とは"人さらい"を意味している。"人さらい"!   唐十郎の芝居に出てきそうな言葉だが、最近、とんと聞かなくなった言葉である。つまり、死語になったということであろう。子供をさらって身代金を要求するような事件も昔のように身近ではなくなった。それは、身代金目的の誘拐罪がリスクの大きさの割には実りがない犯罪であることを人々が理解したからではないか?

1963年3月31日、台東区に住む4歳の少年が遊んでいた公園から忽然と姿を消した。村越吉展ちゃんである。「吉展ちゃん事件」として有名なこの事件で 、犯人の小原保に身代金目的で誘拐された吉展ちゃんは誘拐後に殺害され、二年三ヶ月後に犯人の自供により遺体となって発見された。同年、黒澤明監督の「天国と地獄」が公開され、映画は大ヒット。その卓抜した身代金の受け渡し方法ゆえに後に多くの誘拐犯人たちが参考にしたサスペンス映画である。東京オリンピック開催前夜、世の中の人々にとって誘拐犯人="人さらい"は今よりずっと身近な存在としてあったにちがいない。だから、昔の母親たちは上記のような台詞で、我が子を外へ送り出したのだ。2019年の今、母親は子供を何と言って送り出しているのだろう?   まさか「行ってらっしゃい。通り魔に気をつけてね」とは言っていないと思うが、もしそうならほとんどブラック・ユーモアである。

※通学する子供たち。(「交通安全部」より)