作品はすでにある | 高橋いさをの徒然草

作品はすでにある

「作品は以前から存在する知られざる遺物である。作家は手持ちの道具箱から目的にかなった用具を選んで、その遺物をできる限り完全な形で発掘することに努めなければならない」

これは「小説作法」(スティーヴン・キング著/アーティスト・ハウス社)の中に出てきた一節である。キングに拠れば、小説を書くとは、作家が懸命に文字を紡いでいく作業ではなく、すでにある作品を取り出す作業であるということである。わたしは小説家ではないが、思い当たる節はある。

キングは作品を遺物に喩えているが、彫刻家が作る彫像にも喩えられる。作家の頭の中にはすでに完成した彫像がある。それを金槌やノミを使っていかに繊細に掘り出すことができるかーーそれが作品を作るということなのだ。傑作とは、金槌やノミの使い方が繊細で、掘り出された彫像が完璧な形を保っているが、失敗作は道具を雑に扱ったゆえに彫像が欠けて歪(いびつ)な状態を指す。夏目漱石が「夢十夜」の中で描いた鎌倉時代の仏師・運慶に関しての人々の会話もこれによく似ている。

「よくああ無造作にノミを使って、思うような眉や鼻ができるものだな」
「あれは眉や鼻をノミで作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、ノミや鎚の力で掘り出しているだけだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違えるはずはない」

キングにせよ、運慶にせよ、これらの言葉には、創作の極意が語られている。つまり、これは何も小説執筆だけの話ではなく、すべての創作活動とは、そのような発掘作業として語れるということだと思う。それが文筆であれ、作曲であれ、絵画を描くことであれ、すべての創作活動は遺跡の発掘の比喩で語ることができるように思う。作品はすでに作家の中に存在している。後は、その遺跡をどれだけ正確に掘り出せるかどうかだ。逆に言えば、作家の中に存在しない彫像は決して掘り出すことができない。

※運慶作・金剛力士像。(「excit blog」より)