心の潤い | 高橋いさをの徒然草

心の潤い

第八号「あなたはあの子の死刑執行人か?」 
第三号「(大声で)その一人だよ!」
第八号「あなた自身で電気椅子のスイッチを入れたい心境か?」
第三号「(怒鳴る)あのガキならな、この手で入れてやりたいね!」
第八号「(悲し気に首を振って)あなたが気の毒になってきた」
第三号「(怒鳴る)おれをコケにする気か!」
第八号「スイッチを入れたがるなんて、気の毒な人だ!」
第三号「だまれ!」
第八号「あんなはサディストだ」

これは「十二人の怒れる男」(レジナルド・ローズ作 額田やえ子訳/劇書房)の一節である。売り言葉に買い言葉のようなやり取りだが、陪審員第三号の心の荒(すさ)みが滲み出ているやり取りであるように思う。心の荒んだ人は他人に対して攻撃的に振る舞うことが多い。

陪審員第三号は従業員をたくさん抱える宅配便会社の社長である。演じるはリー・J・コッブ。彼は被告人の少年と同じくらいの年頃の息子がいて、親子関係がギクシャクしているらしい。悩み事はそれ以外にあるにちがいなく、部下から慕われず、妻からも疎んじられているのかもしれないし、会社の経営状態も芳しくないのかもしれない。その上、息子も反抗的だったりすれば、彼の心が荒んでしまうのもわからないでもない。人間は誰かに愛されたり、頼られたり、尊敬されたりすることで心の潤いを持つことができるから。

「金持ち喧嘩せず」という言葉がある。心に余裕がある人は、相手の攻撃にまともに対応せず矛先をかわすことができるという意味だと思う。わたしも人間だから、マレに誰かと口喧嘩くらいはするが、そういう時はよっぽど腹の虫の居どころがよくない時である。なぜ虫の居どころが悪いかと言うと、わたしにもまあいろいろと悩み事があるからである。そういう様々な悩み事によるストレスが誰かとの喧嘩を誘発する要因である。それにしても、誰かと喧嘩をした後のあの砂を噛んだようなザラザラしたような心の感じはまったく嫌なものである。

ともあれ、心に潤いがある人だけが、他人に対して優しくなれるのだと思う。心に潤いをもたらすためにも、人間は誰かに愛されなければならない。

※陪審員第三号を演じるリー・J・コッブ。(「こんな日は映画を観よう」より)