2020年、1月24日、朝。繋養先の新和牧場でサクラローレルが死んだ。

 

29歳、老衰。

 

2012年に種牡馬を引退。引退後も牧場に訪れるファンは多く、穏やかに余生を送っていたという。

 

 

死の淵を二度見たサクラローレルが不死鳥のごとく甦り、種牡馬となりその『血』を繋ぎ、生きて、生きて馬生を全うした。

 

 

 

1991年、5月8日。北海道静内町・谷岡牧場で生まれた持込み馬サクラローレル。

 

父レインボークエスト、母ローラローラが身籠ったまま輸入され、日本で生まれたのがサクラローレルだった。

 

 

当時、『サクラ』といえばサクラユタカオー、サクラスターオー、サクラチヨノオー、サクラホクトオー、サクラバクシンオー、サクラチトセオー・・・・・・『王』の名を持つ馬が象徴だった。

 

1991年、谷岡牧場で生まれた同期にもサクラエイコウオー、サクラスーパーオーがいた。持込み馬ゆえか?『王』の名のないサクラローレルだったが、外国の『血』、栃栗毛の優雅な馬体は高く評価されていた。

 

 

 

期待とは裏腹に脚部難がサクラローレルを苦しめ、デビューは1994年、4歳(現表記3歳)になってからだった。

 

1月、新馬戦9着、折り返しの新馬戦3着、初勝利は3戦目・ダート未勝利戦。続く2月・春菜賞・芝1600mは6着。

 

3月、脚元に負担の少ないダート戦で2,1着。皐月賞出走は諦め、ダーイーをめざすこととなり、調整された。

 

4月30日、青葉賞で再び芝に戻しエアダブリンの0.1秒差3着、ダービー出走権を得た。

 

ダービー直前に右後脚球節炎を発症。ダービーは回避。

 

 

秋は条件戦3着のあとセントライト記念8着、菊花賞は断念せざるを得なかった。

 

 

クラシックは無縁のままに終わったサクラローレル。

 

そして、この年クラシック『3冠』の偉業を成し遂げたのがナリタブライアンであり、そのナリタブライアンを『打ち負かす!』というおこがましい大目標を掲げたのが、サクラローレルだった。

 

 

脚部難で真価を発揮できないでいるサクラローレル。その『真の実力』を引き出してくれるのは、ナリタブライアンでしかない・・・・・・管理する美浦・境勝太郎師は真剣に考えていた。

 

 

セントライト記念後、10月・六社特別(900万下)2着、秋興特別(900万下)2着のサクラローレル。

 

菊花賞で『3冠馬』となったナリタブライアン。否応なく響き渡るその名声。

 

11月・比良山特別(900万下)1着、12月・冬至S(1500万下)1着、連勝しオープンいりしたサクラローレル。

 

 

1995年、1月・中山金杯(G3)1着、重賞初勝利。

 

2月・目黒記念(G2)。ハギノリアルキングのクビ差2着。

 

 

いよいよ本格化を迎えつつあるサクラローレル。

 

天皇賞春、大一番へ向けて栗東入りした。

 

 

調教で思いもかけぬ不運。両前脚の深管骨折。

 

重賞だった。

 

安楽死処分も考えられた。

 

 

だが、

 

このままでは終わらせられないッ。

 

 

境勝太郎師、スタッフ、関係者・・・・・・多くの人の愛情と努力が結集された。

 

 

懸命の治療が行われ、サクラローレルは安楽死されることなく長い、長い復帰を待つこととなった。

 

 

(つづく)