史上最強ステイヤーといえば?
多くの声が漏れる。
その名は、メジロマックイーン。
メジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーン、芦毛親子3代天皇賞制覇。
天皇賞春連覇、史上初の賞金10億円突破、数々の伝説をつくった。
史上に残る名馬。
兄は、
兄は、
つかみどころのない馬として知られた、名馬だった。
その名は、メジロデュレン。
父フィデオン、母メジロオーロラ。母の父リマンド。
1983年、5月1日。名門メジロの子分け牧場・吉田堅牧場で生まれる。
父フィデオンは競走成績こそ見るべきものはなかったが、真性のステイヤーとしてメジロでは期待された種牡馬だった。
稀に見る気性難をもち、日本にやって来た当初は立て続けに従業員に大怪我を負わせ、供用中止も考えられたほどだった。
父フィデオンから狂気の血を受け継いだメジロデュレン。
血の不幸よりも大きな不幸が生まれた時に起こっていた。
母メジロオーロラから疎まれたのだ。
母と仔、ごく自然にあるサラブレッドの光景が、そこにはなかった。
初仔であるメジロデュレンに冷たく、乳すら与えない日々が続いた。
母の乳を求めてすり寄るデュレンに対し、オーロラは座り込んで乳を飲めなくしたのだ。
母の愛を知らずに育ったメジロデュレン。
仔別れ以前にすでに孤独だった。
1985年。栗東・池江泰郎厩舎に入厩したメジロデュレン。
激しい気性の裏にある底知れない悲しみは、誰にもわからなかった。
8月デビュー。3着、2着のあと膝の骨折で長期休養を余儀なくされた。
1986年、5月復帰。
未勝利戦を勝ち上がると、2着、5着、1着、3着、1着、1着。
オープンまで駆け上がった。嵐山特別では菊花賞と同じ距離3000mを制覇。
11月9日、菊花賞。
1番人気ラグビーボール、2番人気タケノコマヨシ、3番人気レジェンドテイオー。
4番人気サニーライト、ダービー馬ダイナガリバーが5番人気。混戦といわれた菊花賞。
メジロデュレンは6番人気だった。
父から狂気の血とともに得たステイヤーの血。
母の愛を失くした仔は、誰よりも強い心で自分を見つめられた。
幼くして自立することが、生きる道だった
荒ぶる心を内に秘め、冷静に3000mを乗り切ろうとするメジロデュレン。
降りしきる雨の中、好位で脚を溜めた。
4番人気サニーライトの競走中止、ダグビーボールが進路をカットされる不利。
後方で有力馬が、淀の魔物の試練を受ける中、じっと耐えた。
直線、解き放たれ、荒れ狂うがごときデュレン。
一気に先頭に立った。
同じ位置から復権を狙うダイナーガリバーとともに、
めざすゴール。
ダイナガリバーを半馬身抑えきった。
菊花賞馬メジロデュレン誕生。
それは、メジロ軍団初のクラシック制覇だった。
1987年、3月。日経新春杯を3着、メジロの大目標である天皇賞へ。
思われた矢先に骨折。長期休養。
10月、復帰戦のカシオペアSを5着。
12月、鳴尾記念を10着惨敗。
12月27日、有馬記念。
10番人気まで落ちたメジロデュレン。
メジロ軍団でさえ春まで休養を提案した。
頑として貫いたのは池江師だった。
上り調子のデュレンを察知していた。
「気性の激しい半面、非常に賢い馬だった」述懐する池江師。
メジロデュレンは走るべきレースを知っていたのかもしれない。
ゲートが開くや、3番人気、ダービー馬メリーナイスが落馬。数秒でレースを終えた。
大波乱を予感させた。
3コーナーでは菊花賞で奇跡の勝利を演じた1番人気、サクラスターオーが競走中止。
騒然とする場内を、誰よりも冷静にひた走ったメジロデュレン。
直線、最速の切れ味を見せ、菊花賞3着馬ユーワジェームスを2分の1馬身差仕切って、グランプリの栄冠を得た。
有馬記念を制したメジロデュレン。
しかし、いまも語られるのはメジロデュレンでなく、
有馬で散ったサクラスターオーであり、ファンの目はサクラスターオーの生死に注がれた。
菊花賞、有馬記念、2つの栄光の軌跡をもつメジロデュレン。
血塗られたその栄光に賛辞はなかった。
4,7,3,7,8,11,5着。
2度と勝つ走りは見せなかったメジロデュレン。
荒い気性だけが目立つようになり、
勝利への執念が消え失せた。
誰よりも、
愛されることに枯渇していたメジロデュレン。
勝つことが、
愛されることの始まり。
そう信じてひた走った。
血塗られた勝利は、
敗者の心が重くのしかかる。
そして、いつか人は言う。
まともなら、勝っていたのはサクラスターオー、メリーナイス。
現実は記憶の欠片とともに、
闇に消え入るのか!
メジロデュレン。
紛れもない、時代を駆け抜けた名馬。
菊花賞を制し、
有馬記念をぶち抜いた。
メジロデュレン。
愛を求め、彷徨った魂。
多くの声が漏れる。
その名は、メジロマックイーン。
メジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーン、芦毛親子3代天皇賞制覇。
天皇賞春連覇、史上初の賞金10億円突破、数々の伝説をつくった。
史上に残る名馬。
兄は、
兄は、
つかみどころのない馬として知られた、名馬だった。
その名は、メジロデュレン。
父フィデオン、母メジロオーロラ。母の父リマンド。
1983年、5月1日。名門メジロの子分け牧場・吉田堅牧場で生まれる。
父フィデオンは競走成績こそ見るべきものはなかったが、真性のステイヤーとしてメジロでは期待された種牡馬だった。
稀に見る気性難をもち、日本にやって来た当初は立て続けに従業員に大怪我を負わせ、供用中止も考えられたほどだった。
父フィデオンから狂気の血を受け継いだメジロデュレン。
血の不幸よりも大きな不幸が生まれた時に起こっていた。
母メジロオーロラから疎まれたのだ。
母と仔、ごく自然にあるサラブレッドの光景が、そこにはなかった。
初仔であるメジロデュレンに冷たく、乳すら与えない日々が続いた。
母の乳を求めてすり寄るデュレンに対し、オーロラは座り込んで乳を飲めなくしたのだ。
母の愛を知らずに育ったメジロデュレン。
仔別れ以前にすでに孤独だった。
1985年。栗東・池江泰郎厩舎に入厩したメジロデュレン。
激しい気性の裏にある底知れない悲しみは、誰にもわからなかった。
8月デビュー。3着、2着のあと膝の骨折で長期休養を余儀なくされた。
1986年、5月復帰。
未勝利戦を勝ち上がると、2着、5着、1着、3着、1着、1着。
オープンまで駆け上がった。嵐山特別では菊花賞と同じ距離3000mを制覇。
11月9日、菊花賞。
1番人気ラグビーボール、2番人気タケノコマヨシ、3番人気レジェンドテイオー。
4番人気サニーライト、ダービー馬ダイナガリバーが5番人気。混戦といわれた菊花賞。
メジロデュレンは6番人気だった。
父から狂気の血とともに得たステイヤーの血。
母の愛を失くした仔は、誰よりも強い心で自分を見つめられた。
幼くして自立することが、生きる道だった
荒ぶる心を内に秘め、冷静に3000mを乗り切ろうとするメジロデュレン。
降りしきる雨の中、好位で脚を溜めた。
4番人気サニーライトの競走中止、ダグビーボールが進路をカットされる不利。
後方で有力馬が、淀の魔物の試練を受ける中、じっと耐えた。
直線、解き放たれ、荒れ狂うがごときデュレン。
一気に先頭に立った。
同じ位置から復権を狙うダイナーガリバーとともに、
めざすゴール。
ダイナガリバーを半馬身抑えきった。
菊花賞馬メジロデュレン誕生。
それは、メジロ軍団初のクラシック制覇だった。
1987年、3月。日経新春杯を3着、メジロの大目標である天皇賞へ。
思われた矢先に骨折。長期休養。
10月、復帰戦のカシオペアSを5着。
12月、鳴尾記念を10着惨敗。
12月27日、有馬記念。
10番人気まで落ちたメジロデュレン。
メジロ軍団でさえ春まで休養を提案した。
頑として貫いたのは池江師だった。
上り調子のデュレンを察知していた。
「気性の激しい半面、非常に賢い馬だった」述懐する池江師。
メジロデュレンは走るべきレースを知っていたのかもしれない。
ゲートが開くや、3番人気、ダービー馬メリーナイスが落馬。数秒でレースを終えた。
大波乱を予感させた。
3コーナーでは菊花賞で奇跡の勝利を演じた1番人気、サクラスターオーが競走中止。
騒然とする場内を、誰よりも冷静にひた走ったメジロデュレン。
直線、最速の切れ味を見せ、菊花賞3着馬ユーワジェームスを2分の1馬身差仕切って、グランプリの栄冠を得た。
有馬記念を制したメジロデュレン。
しかし、いまも語られるのはメジロデュレンでなく、
有馬で散ったサクラスターオーであり、ファンの目はサクラスターオーの生死に注がれた。
菊花賞、有馬記念、2つの栄光の軌跡をもつメジロデュレン。
血塗られたその栄光に賛辞はなかった。
4,7,3,7,8,11,5着。
2度と勝つ走りは見せなかったメジロデュレン。
荒い気性だけが目立つようになり、
勝利への執念が消え失せた。
誰よりも、
愛されることに枯渇していたメジロデュレン。
勝つことが、
愛されることの始まり。
そう信じてひた走った。
血塗られた勝利は、
敗者の心が重くのしかかる。
そして、いつか人は言う。
まともなら、勝っていたのはサクラスターオー、メリーナイス。
現実は記憶の欠片とともに、
闇に消え入るのか!
メジロデュレン。
紛れもない、時代を駆け抜けた名馬。
菊花賞を制し、
有馬記念をぶち抜いた。
メジロデュレン。
愛を求め、彷徨った魂。