1990年3月10日。北海道早来町・社台ファームに生まれたロイスアンドロイス。
父トニービン、母ザッツマイパル。母の父キートゥザミント。
日本最大の大手生産グループ社台、良血馬、素質馬の宝庫。
当然ながらロイスアンドロイスも社台の馬としての素質を秘めていたはず。
1992年、12月。新馬デビュー。
藤沢厩舎の逸材、クエストフォベスト(父トウショウボーイ、母ダイアナソロン)1番人気と叩き合ったロイスアンドロイス5番人気。
結果、4分の3馬身差の2着。
惜敗というか、健闘というか、この1戦がロイスアンドロイスのすべてを暗示していたのかも知れない。
稀に見る善戦マンといわれたロイスアンドロイス。
500㌔前後の雄大な馬体ながら、いかつさはなく、スマートで気品を漂わせていた。
高級車ロールスロイスを馬名に登録したが却下にあい、イメージを損なわずロイスアンドロイスとしたいきさつからも、かもしだす優雅さがうかがい知れる。
いかにも優雅なダンディー・ロイスアンドロイスは優雅さを重んじるばかりに、必死になることを拒んだ馬なのかもしれない。
一流馬が持つはずの、ゴール前のあくなき執念、能力を超えた魂の走り、それを失った馬。
2着、2着、3着、2着、2着、2着、1勝もしないままに4歳(現表記3歳)春を迎えたロイスアンドロイス。
すでに皐月賞は終わり、ナリタタイシンがビワハヤヒデをクビ差押さえ皐月賞馬として君臨していた。
5月、ダービートライアル・青葉賞。
未勝利の身でロイスアンドロイスは出走してきた。
当時、オープン特別だが2着まで優先出走権が与えられる青葉賞。
誰もが出馬表を見て驚いた。
1番人気ステージチャンプ、2番人気ラリーキャップが早め先頭争いするなか、中団に位置していたロイスアンドロイスは鋭い差し足を発揮。
2頭に迫った。
勝ってしまうんでは! 思わせた瞬間、伸び脚は止まった。
3着となったロイスアンドロイスは、惜しくも出走権を獲れなかった。(賞金獲得のない馬のダービー出走は認められていなかったので、出走には勝つことしかなかったわけだが)
その後、ようやく未勝利戦を勝ち、未勝利脱出したロイスアンドロイス。
ラジオたんぱ賞3着、500万下特別を連続2着のあと、セントライト記念2着。
12戦1勝、2着8回、3着2回。勝たないことがダンディーであるかのごとく、2着、3着を続けるロイスアンドロイス。
その実、なりふり構わぬ自分をさらけ出すことに、臆病だった。
1勝馬で出走した菊花賞。さすがにG1では優雅さだけでは歯が立たなかった、7着惨敗。
1994年、5歳になり1500万下特別を2勝、ようやく形はオープン馬となった。
9月、オールカマー。ビワハヤヒデ、ウイニングチケットに次ぐ3着。4着とは7馬身差。
10月、天皇賞秋。2番手から1頭抜け出したネーハイシーザーを追って、クビ、クビ、クビ、アタマ、アタマの大激戦。
2着セキテイリュウオーに続いて3着でゴールしたロイスアンドロイス。
11月27日、ジャパンカップ。
1番人気サンドピットが逃げる展開の中、好位直後6番手につけたロイスアンドロイス。
いつもに増して堂々と優雅に見えた。8番人気ではあるが、その落ち着きは人気馬と変わらなかった。
直線、シフトチェンジしたロイスアンドロイスは素晴らしい加速でサンドピットを抜き去り、
あと、1ハロンで先頭に躍り出たッ!
世界のG1、他の馬の執念、半端じゃない。
一度抜かれたマーベラスクラウンが、差し返す。
パラダイスクリークが追い詰める。
ここから、
いかに伸び切れるか!
セン馬の意地、マーベラスクラウン!
アーリントンミリオン、ワシントンDC勝ちは伊達じゃない、パラダイスクリーク!
形相が変わった。凄まじい形相の2頭に呑み込まれたロイスアンドロイス。
ハナ、1馬身4分の1、またしても3着ロイスアンドロイス。
なぜ? なぜ? 必死になれない。
死に物狂いになれない自分を見つめる自分がいた。
ジレンマ。
1995年、6歳。
産経大阪杯4着、富士S3着、ジャパンカップ7着、有馬記念7着。
ジレンマは苛立ちとなった。
1996年、7歳。
アメリカジョッキーC4着、日経賞8着、天皇賞春11着。
明りの見えない闇。
苛立ちがストレスとなり、身も心も蝕むか?
突然、発症した腸捻転。
生きてやるんだ。
何がなんでも、生き抜く!
強い心、あってほしかった。
6月14日。
ロイスアンドロイスは生涯の幕を閉じた。
粋で、優雅で、ダンディーなロイスアンドロイス。
生涯かけて、
捨てきれなかった。
心の叫びを、
執念に変えられなかった。
それだけに、
愛しき、
ロイスアンドロイス。
父トニービン、母ザッツマイパル。母の父キートゥザミント。
日本最大の大手生産グループ社台、良血馬、素質馬の宝庫。
当然ながらロイスアンドロイスも社台の馬としての素質を秘めていたはず。
1992年、12月。新馬デビュー。
藤沢厩舎の逸材、クエストフォベスト(父トウショウボーイ、母ダイアナソロン)1番人気と叩き合ったロイスアンドロイス5番人気。
結果、4分の3馬身差の2着。
惜敗というか、健闘というか、この1戦がロイスアンドロイスのすべてを暗示していたのかも知れない。
稀に見る善戦マンといわれたロイスアンドロイス。
500㌔前後の雄大な馬体ながら、いかつさはなく、スマートで気品を漂わせていた。
高級車ロールスロイスを馬名に登録したが却下にあい、イメージを損なわずロイスアンドロイスとしたいきさつからも、かもしだす優雅さがうかがい知れる。
いかにも優雅なダンディー・ロイスアンドロイスは優雅さを重んじるばかりに、必死になることを拒んだ馬なのかもしれない。
一流馬が持つはずの、ゴール前のあくなき執念、能力を超えた魂の走り、それを失った馬。
2着、2着、3着、2着、2着、2着、1勝もしないままに4歳(現表記3歳)春を迎えたロイスアンドロイス。
すでに皐月賞は終わり、ナリタタイシンがビワハヤヒデをクビ差押さえ皐月賞馬として君臨していた。
5月、ダービートライアル・青葉賞。
未勝利の身でロイスアンドロイスは出走してきた。
当時、オープン特別だが2着まで優先出走権が与えられる青葉賞。
誰もが出馬表を見て驚いた。
1番人気ステージチャンプ、2番人気ラリーキャップが早め先頭争いするなか、中団に位置していたロイスアンドロイスは鋭い差し足を発揮。
2頭に迫った。
勝ってしまうんでは! 思わせた瞬間、伸び脚は止まった。
3着となったロイスアンドロイスは、惜しくも出走権を獲れなかった。(賞金獲得のない馬のダービー出走は認められていなかったので、出走には勝つことしかなかったわけだが)
その後、ようやく未勝利戦を勝ち、未勝利脱出したロイスアンドロイス。
ラジオたんぱ賞3着、500万下特別を連続2着のあと、セントライト記念2着。
12戦1勝、2着8回、3着2回。勝たないことがダンディーであるかのごとく、2着、3着を続けるロイスアンドロイス。
その実、なりふり構わぬ自分をさらけ出すことに、臆病だった。
1勝馬で出走した菊花賞。さすがにG1では優雅さだけでは歯が立たなかった、7着惨敗。
1994年、5歳になり1500万下特別を2勝、ようやく形はオープン馬となった。
9月、オールカマー。ビワハヤヒデ、ウイニングチケットに次ぐ3着。4着とは7馬身差。
10月、天皇賞秋。2番手から1頭抜け出したネーハイシーザーを追って、クビ、クビ、クビ、アタマ、アタマの大激戦。
2着セキテイリュウオーに続いて3着でゴールしたロイスアンドロイス。
11月27日、ジャパンカップ。
1番人気サンドピットが逃げる展開の中、好位直後6番手につけたロイスアンドロイス。
いつもに増して堂々と優雅に見えた。8番人気ではあるが、その落ち着きは人気馬と変わらなかった。
直線、シフトチェンジしたロイスアンドロイスは素晴らしい加速でサンドピットを抜き去り、
あと、1ハロンで先頭に躍り出たッ!
世界のG1、他の馬の執念、半端じゃない。
一度抜かれたマーベラスクラウンが、差し返す。
パラダイスクリークが追い詰める。
ここから、
いかに伸び切れるか!
セン馬の意地、マーベラスクラウン!
アーリントンミリオン、ワシントンDC勝ちは伊達じゃない、パラダイスクリーク!
形相が変わった。凄まじい形相の2頭に呑み込まれたロイスアンドロイス。
ハナ、1馬身4分の1、またしても3着ロイスアンドロイス。
なぜ? なぜ? 必死になれない。
死に物狂いになれない自分を見つめる自分がいた。
ジレンマ。
1995年、6歳。
産経大阪杯4着、富士S3着、ジャパンカップ7着、有馬記念7着。
ジレンマは苛立ちとなった。
1996年、7歳。
アメリカジョッキーC4着、日経賞8着、天皇賞春11着。
明りの見えない闇。
苛立ちがストレスとなり、身も心も蝕むか?
突然、発症した腸捻転。
生きてやるんだ。
何がなんでも、生き抜く!
強い心、あってほしかった。
6月14日。
ロイスアンドロイスは生涯の幕を閉じた。
粋で、優雅で、ダンディーなロイスアンドロイス。
生涯かけて、
捨てきれなかった。
心の叫びを、
執念に変えられなかった。
それだけに、
愛しき、
ロイスアンドロイス。