美しい馬、単純にその姿だけで人々を惹きつける。

四白流星、尾花栗毛。

ゴールドシチーがそうであった。


1984年4月16日。北海道門別町の夫婦2人で経営する田中牧場に生まれたゴールドシチー。

父ヴァイスリーガル、母イタリアンシチー。母の父テスコボーイ。

父ヴァイスリーガルはカナダで活躍し、種牡馬としてもカナダでリーディングサイヤーとなったこともあるノーザンダンサーの直仔であったが、日本ではさしたる馬を輩出できず、奇しくもゴールドシチーが生まれた年に世を去った。

母イタリアンシチーは7戦1勝。優駿ホースクラブの所有馬で子分けの繁殖牝馬として田中牧場に委託されていた。近親にも活躍馬は見つからず、大衆向け一口馬主のクラブホースだからこそ繁殖に上がれたといえる馬だった。

そういう血統背景のもとで生まれたゴールドシチー。特徴は父ヴァイスリーガルに瓜二つといわれた美しい馬体。

金色に輝くたてがみと尾をもつ尾花栗毛。4本の脚は白いソックスを履き、額から鼻筋へ白い流星が走っていた。

絵に描いたような美形の要素をすべてもつゴールドシチー。


美形、特にド派手な馬は走らない、という通説。美しすぎるゴールドシチーは「競走馬になれなかったらディズニーランドに寄付しようか」とさえいわれていた。


だが、ゴールドシチーが父ヴァイスリーガルから真に受け継いだものは、瓜二つの美しい馬体ではなく、負けん気の強さだった。

牧場でも先頭を走らないと気が済まない。目を離すと他の仔馬を噛みつきにいく。とんでもないガキ大将だったという。


「こいつはもの凄い成績をのこすか、すぐ終わるかどっちかだ」

その激しい気性を見て、受け入れ先の栗東・清水厩舎、清水出美師は感じた。


1986年6月、早々と3歳戦(現表記2歳)にデビュー。3戦目で初勝利。札幌3歳Sで2着のあと、コスモス賞で同じ栗毛の四白流星メリーナイス(のちに朝日杯3歳S優勝、ダービー馬)、トキノキャロルを撃破。

頭角を現した。


3歳最終戦は、1984年からグレード制導入でG1となった阪神3歳S。

東の朝日杯3歳Sと並んで西の3歳王者決定戦でもあった。


生来の負けん気の強さ。早起きが嫌いで起こそうとすると大暴れするわがまま。

ゴールドシチーのすべてが出たレースだった。



ゲートが開くや、負けん気の強さが騎手を困らせた。鞍上・本田優はメイショウマツカゼを先に行かせて2番手で脚を溜めたかった。

そんな本田の目論みなど、ゴールドシチーには無意味だった。

誰にも前は走らせない!

この日は、まったく抑えが利かない。2番手からメイショウマツカゼを突っつき通しだった。


仕方なく、早めに先頭に立たせた本田。

しかし、ゴールドシチーは直線に向いても余力たっぷりだった。

これは! 本田は勝利を確信した。


すると、今度はソラを使い出した。

物見だ。肝心の直線で、ゴールに集中しない。

後続がどんどん迫ってくる!


サンキンハヤテ、ファンドリスキーとなだれ込むようにゴール。

だが、並ばれた一瞬、ゴールドシチーの負けん気が、再び発揮された。

アタマ、ハナ、2頭を制して、ゴールドシチーはG1馬となった。


血統的にも見るべきものはなく、美し過ぎる容姿から「ディズニーランドへ」といわれた。

競走馬としての血は、反逆の血だったかもしれない。

その負けん気は、父ヴァイスリーガルの誇りを誇示していたか?


朝日杯3歳Sを勝ったメリーナイスとともに、最優秀3歳馬となったゴールドシチー。



年明けて4歳クラシック戦線に臨む。

1987年、クラシック戦線。

悲劇の年代と呼ばれた、この年の4歳馬。

その真っ只中に、ゴールドシチーはいた。


(つづく)